『レモネードを作ろう 』 ヴァージニア・ユウワー・ウルフ 

300ページほどの厚い本。しかし、最初のページを開いて「あれ?」と思った。一行に短い一文。改行。また一文・・・何行か続くと一行あけて、また一文。まるで、詩のようで、ページの下のほうは白いまま。最初から最後まで、そうなのです。こんな本は初めてです。こんなに厚い本がさあっと読めてしまうのは、つまり、そういう理由です。

さて、舞台になるのは、アメリカの底辺、犯罪とドラッグの街です。
主人公にして語り手は、ラヴォ―ンという名の14歳の高校生。彼女はこの街から出て行くために、よい職につくために大学へ行こうと考えている。そのための学費を稼ぐためにベビーシッターのアルバイトを始めます。
彼女の雇い主はジョリーという17歳の母親。2歳のジェレミーと赤ちゃんのジリーをひとりで育てています。父親は最初からいません。アパートのなかのこの家はひどく汚くて臭い・・・。

ふたりとも「貧しい」境遇にありながら、ひとことで「貧しい」と言っていいのかな、と思うほどに世界は違います。

何もかもきちんとしていて、学校に通い、宿題をし、成績がいい、上昇志向のラヴォーン。彼女の生活は、母親、学校の先生、友人たちに守られている。

ジョリーはいいかげんで、めちゃくちゃで、どぶみたいなところでアップアップしている。不潔でだらしない。文字も読めない。身寄りなんかいないのだもの、一人ぼっちでやってきて、親切そうに近付いては利用するだけ利用して去っていく連中しか知らないのだもの。
そうなの?ほんとうにそうなのか。
ちがう。
ラヴォーンはジョリーの家に通いながら見えてくる。
ジョリーの意志の強さ。底辺にいながら、意外にまっすぐで、乱暴な言葉を使いながら、優等生のラヴォーンをはっとさせるある種の真実を言いあてたりするのです。そして、二人の子供達を深く深く愛している。
そのうちにジョリーは失業し、福祉に頼ることを嫌う彼女はたちまちバイト料を払えなくなります。
ラヴォーンはなぜかジョリーを放っておけない・・・

ジョリーもラヴォーンもあまりにもちがう価値観のなかで生きながら、相手をみつめている。それは自分をすてて価値観を共有するのではない、連れ立って、自分の道を歩いていく。
自分の人生の一時を隣り合って歩いた同士として、互いを理解しているのだと思います。そして、別れていく。

また、この本の中の大人たちの無理解。一見、若者達に対し、理解があるように見えるのに、彼らに寄り添っているように見えるのに(事実本人たちはそのつもり)、まるっきり理解していない。理解していないことを自覚してもいないから、なおさら始末が悪いのだ。

これをなんと呼んだらいいのでしょうか。二人の少女の成長物語、でしょうか。ある種の問題提起、でしょうか。たぶん、どちらもあるのでしょう。
でも、この滅茶苦茶なアパートで、周囲をはらはらさせながら過ごしたラヴォーンとジョリーの短い日々の小さなきらめきと本物の笑顔。(2歳のジェレミーがかわいくてかわいくて・・・)
それから、クライマックスシーンの緊張から解き放たれて、ラストに向かう静かな余韻。
こういうものに静かに浸っていたいな、と思いました。

「レモネードを作ろう」というこのタイトルの意味が、象徴的な物語として、この本の中で語られます。
この本は命と希望の物語。「レモネードを作る」物語なのだ、と思いました。