『太陽の戦士』 ローズマリ・サトクリフ 

舞台は青銅器時代のイギリスです。少年が一人前の戦士となるためには、命を賭けて過酷な試練を乗り越えなければなりませんでした。

主人公は片腕不自由な少年です。
この少年が仲間の中で微妙な立場であることが、さまざまな場面で描かれます。

戦士になるために3年間同じ年頃の少年たちと訓練を受ける「わかものの家」での最初の日。片腕であるために盾と槍とを同時に扱えないことが仲間に知れたとき。
弱い者を補いあいながら助け合っていきましょう、という甘いものではない。弱い者は容赦なく切り捨てられる厳しい世界。
彼は自分で自分の立場を切り開きます。
仲間と自分との違いを意識しながら、部族のだれにも劣らない人間として認められたい。片腕などということを忘れさせるほどに。
天賦の資質と、人一倍の修練のもと、彼は自分の居場所を獲得していくのです。
片腕であるのに、という言葉が、むしろ無礼に感じられて、ひっこめたくなります。
ここで、障害を持ちながら、誰にもまねのできない自分の世界を築き、世界中に名を知られるまでになったサトクリフ本人とだぶってしまいます。

しかし、試練に失敗し、村を追われ、混血の人々のなかに混じって羊を追う生活。
少年の屈辱の日々。
ここでも、仲間と違う自分を意識せずにはいられない少年。孤独に耐えながら、彼は大人になります…
そして…


物語は単純、といえるのではないでしょうか。
最初の方で、主人公が、祖父の「あいつは戦士にはなれん」という言葉を立ち聞きして、ショックを受けるところから、すでに物語は読めてしまいます。
それなのに、これほどに感動させられるのはなぜでしょうか。
たぶん、主人公の少年の心の中は、最初から最後まで(よきにつけ悪しきにつけ)激しい嵐が吹き荒れていたのだと思うのです。
それが決して大げさな言葉や場面を見せることなく、むしろ抑えに抑えて表現されているのです。
わたしたち読者は天上高く持ち上げられたり揺すぶられたりすることなく、自然に主人公についていけるのです。
そして、ごく自然に自分の言葉に置き換えて、主人公の無念さ、屈辱感、孤独感を追体験してしまうのではないか、と思うのです。
決して激しくなることのない落ち着いた文章によって、ラストシーンへと導かれます。
感情が自然に高まってきて、いつのまにか深く感動している自分に気がついて終わります。


サトクリフ、三つ読んで、どれも、感動の道順や質が似ているなあと思いました。切ない、とか、哀しい、とかいう言葉と完全に切り離された世界です
。そして、読者を甘やかさず、深い感動に導いてくれるのだなあと思いました。(この読みにくさ、物語への入り込みにくさを乗り越えれば、ってことも含めて)