『10:04(ジュウジヨンプン)』 ベン・ラーナー  /木原善彦

 

10:04 (エクス・リブリス)

10:04 (エクス・リブリス)

 

筋があるような、ないような(あったとしても、どうでもいいような)不思議な小説だ。
詩人である「僕」は、嘗て書いた短編をふくらませて長編にできないか、という依頼を受け、「同時に複数の未来を投影してみよう」と試みる。というが、この言葉の意味も、煙に巻かれたようで、わからない。


なかなかページが捗らない読書で、果たして最後まで行きつけるかな、と心細くなりかけた時、
「すべては今と変わらない
 ただほんの少し違うだけで」
との言葉に出会った。
形を変えて何度も出てくる言葉。これは約束事だ。
そう気がついたら、俄然楽しくなった。
繰り返すリフレイン♪
これは、物語の形をした詩ではないか。


ほんとうは、どこまでわかっているのか、と訊かれたら、心もとないのだ。
訳者あとがきを読んで、ああ、あれはそういう意味? あれとこれはそうやって繋がって居たの? と初めて知ることの連続だったし。


それでも、この読書体験はちょっとおもしろかった。
たとえば、一本の筋を、始まりから終わりへと辿っていくのが、小説というものだろうと思うのだ。
でも、この作品は、読むほどに、読んでいる自分が、増殖(?)していくような気持ちになる。先ほど(少し前のページを)読んでいた自分と、今読んでいる自分とが横に並んでいるのを発見して驚くような。


過去に遡って、そこから未来(ほんとうは、その未来も、現在からみたら、すでに過去)を仰ぎ見る感じもある。
過去から現在までの、現在から未来の、どの時間にも自分がいる。過去や未来に起こることみんな知っている自分がいる。
(そもそも、過去、現在、未来と分けて考えるのが間違っているのかも。)


少しずつ形を変えながら、あるいは、まったく別の姿に化けて、一つの言葉、風景、事件は、繰り返し現れる。
死に至る病のこと、
スペースシャトル事故のこと、
(実は存在しない)恐竜の骨のこと、
書き換えられる文書のこと、
……
繰り返す繰り返す「ほんの少し違うだけ」


遊歩小説、と「訳者あとがき」に書かれていた。
なるほど、なるほど。ひとりでてくてく歩いていたはずだったのに、隣に私自身がいる(それも無数に!)のにふっと気がついて驚いている、そんな気分。


だけど、ただひとつの話題だけは、お約束の繰り返しから外れているのではないか。
それは 生まれる命。
他の沢山の言葉の間に隠れて、ほとんど見えなくなったりもしながら、物語は川のように一本の筋になり、物語のなかで、縦に進行しているのじゃないか。(とはいえ、それでも、これがメインのテーマだなんてことはない)
感動的な物語ではない。むしろ、事務的といいたいほどに乾いている。そのくせ、そんなのありえないと仰天する考え方にあたってたじろぐ。
けれども、今。
ひとつの命が芽生えている。