「たくさんの本の山の中で、その本の表紙だけが輝いて見えて、どうしてもこの本を売りたいという、のどの渇きのようなものを感じることさえある。その勘は、本文を一行も読んでいなくても働くことさえある」
本には読み巧者がいるように、きっと売り巧者がいる。彼は売り巧者だ。
彼の名前は月原一整。老舗百貨店の中にある銀河堂書店の文庫担当。仲間内からは、「宝探しの月原」と呼ばれる。
一整が売りたい、と思っているのは、二カ月後に出る『四月の魚』という本だ。(作家としては)無名の作家の初の小説。売り方によっては、誰にも顧みられることなく消えていったかもしれないその本を、まだ読んだこともない一整が、特有の勘から、これは売れる(自分が売りたい)と確信したのだ。
けれども、その思いが形にならないまま、ある事件を機に、一整は銀河堂書店を去ることになってしまうのだ……
物語はそこから動き始める。
なんて不器用で臆病で、優しい人たちなのだろう。
相手に面とむかっていえない思いを、彼らは、本や、本棚や、書店そのものに託す。だから、彼らを仲介するこれらは、本来なら心のないモノであるはずなのに、彼らの気持ちを汲んで、とても優しい、懐かしいものに思えるのだろう。
(それは、そうなるしかない理由もあり、その一端は物語の中で語られるのだが)彼らの不器用さも寂しさも、臆病さも、そのままで良しなのだ。
そういう人たちのおそらく生きづらさのようなものは、居場所を得て、やさしさに変わる。
だから、ここ(物語)は居心地がいい。読者も、ここでほっとしていいのだ。自分だってもっている、あれこれの不器用さをここで取り出して見せていいんだ。そう思う。
本屋は不思議だね。素敵だね。
一人の本好きとしては、銀河堂のような、カリスマ的な書店員さんがいる(人を育てることのできる)大きな本屋さんは心から頼もしいし、
一方、桜の美しい小さな町の「異世界への入口であるような」桜風堂のような小さな本屋さんの佇まいに憧れる。
本屋さんについての素敵な記述があちこちにちりばめられた本で、読んでいると、わくわくする。
たとえば、暗い書店にあかりがともると、眠っていた本たちが一斉に目覚めたように見えるのだという。「声のない合唱団がうたい始めたような」と美しい言葉で表現されるその情景を思いやる楽しさ。
この本を読むと、無性に本屋さんに行きたくなる。
一整たちが売ろうとしていた本『四月の魚』のことを、登場人物のひとりが、このように評している。「これは祝福された物語だ」
それはこの本『桜風堂ものがたり』のことでもある。