『炉辺のこほろぎ』 チャールズ・ディケンズ


登場人物は少ないのです。一幕もののお芝居を観ているようなイメージ。珠玉、という言葉が相応しい中編とも思う。
登場する人はだれもが、それぞれに互いへの思いやりから(善意で)隠し事をしたり嘘をついたりしている。でも、その善意が仇になり、面倒くさいことになっている。


物語の舞台には炉がある。炉のそばには人がいる。
その雰囲気が好きだ。
そこにその人がいなければ「その炉は数個の石と煉瓦と錆びた鉄の棒にすぎない」が、その人によって、炉は「家庭の祭壇」となるのだという。
「その炉の上で、あなたは夜毎につまらぬ感情や、我儘や、心配を生贄にし、静かな心や、信頼する性質や、豊かな心情の誓を捧げ、そのためにこの貧しい炉からの煙は、この世のあらゆる華美な殿堂の最も立派な祭壇の前で焚かれる最も秀れた香りよりももっとよい香りを作って昇って行った」


炉には蟋蟀がいて、チャープチャープと鳴いている。
蟋蟀は、この炉(家)を守る妖精だ。
炉のまわりで繰り広げられる人びとの悲喜劇は、ときどき、幻影にかわる。
炉の妖精が見せる幻だろうか。
そこにいる人の嘗ての日の姿や、未来の老いた姿がふわりと現れる。あるいは、ただ炉と壊れた玩具だけがある誰もいない部屋・・・
人びとのいきいきとした表情と、命の気配のない(ような気がする)光景とが、混ざって、どれが幻なのかわからなくなる。
今という瞬間には、いろいろなものが少しずつ混ざっていることを意識する。過去現在未来。得るもの在るもの失ったもの。
そう思うと、幻影はもう幻影ではないような気がし始める。


私が子どもの頃、家には土間があった。炉(へっつい)があって、火を焚いていた。
土間には、蟋蟀(やそのほかの虫たち)が鳴いていた。
寝しなに、近くで鳴く虫の声を子守歌のように聞いていたっけな、と懐かしく思いだしています。