『舟を編む』 三浦しをん

舟を編む

舟を編む


普段は意識しないが、それなしには一時だって暮らすことのできないのが言葉。
その言葉について、ほとんど知らなかったじゃないか、とふいに思い出す。意識しないだけに。
その豊穣。確かに、言葉って海みたいだ。
海のようだと認めた途端に、それがどんな海なのかわからないまま、溺れてしまいそうになる。
この物語の終わりのほうに「へのひと」というのがちらりと登場(?)する。
「へ」は助詞の「へ」
なんとなく使っている「へ」、ただ一文字の「へ」なのに、違う顔をした「へ」がこんなにいるのか。こんなに表情も性格も違うのか。
びっくりしてしまう。考えたことがあっただろうか。
・・・だから海を渡る舟が必要なのだ。性能の良い舟。辞書、という名の舟。


辞書をつくる、それは地味で面白味のない響きに聞こえた。
でも、自分と辞書との関わりを思いだしてみれば、ずいぶん深いつきあいではないか。
何度も開く大切な愛読書よりも、すーっと長いつきあいではないか。
辞書をひくことは楽しかった。ランダムに広げたページから拾い読みすることは素敵な暇つぶしだった。(ことに学校生徒だったころ、授業中の最高の内職だった)
ひとつの見出し語に付された解説(?)は、わずか数行のそっけなくておもしろみのない箇条書き。
たいてい、その解説には不満だった。短かすぎて物足りなかったり、知りたいことと微妙にずれているようだったり。かゆいところに手が届きそうで届かない感じ。
でも、そのおもしろみのなさ故におもしろくもあったんだ。おもしろみのない辞書に飽きることがなかったのはあのそっけなさのせいだ、きっと。
そっけない数行の解説の奥には膨大な言葉が眠っている可能性がある。または、探し物に辿りつくための最初の手がかりでもある。
舟は、これから船出しようとする人に方向を示す道しるべでもあるのだろう。


辞書=言葉の海を渡る「舟」。を編むために集まった人びとの物語。
舟をつくるために呼ばれながら、自身がどんな海にいるかさえも知らずにいた人。
意識はしているけれど、知れば知るほどにその海の途方もなさに驚き、魅了されていく人。
そうして、広い広い海のただなかで、時々方向を見失ったり、自信を無くしたりする。
そうした人びとの『舟』は、手のひらの中にすっぽり納まる小さな紙切れ(カード?)から始まるのだ。
多くの人たちが様々な方向からかかわりつつ、少しずつ舟の形が現れてくるのを見ているのは楽しいものだ。
その過程を見つめ続け、やがて全体的な姿が見えてくる。
舟を編む」ことは、辞書のそっけなさと同じくらい地味(滋味)で、ページ数と同じくらい気の遠くなるような作業の連続で、辞書の見出し語数に相当するような膨大な物語を孕んでいる。
舟は美しかった。美しい、と思うのは、ここまでに関わってきた人びとの物語が編み込まれているから。
美しい、と思えたことが幸せだった。長い間ずっと手もとにあった辞書を美しい、と思って眺めたことがなかったことを申し訳なく思っている。