ゼラニウムの庭

ゼラニウムの庭

ゼラニウムの庭


るるちゃんの曽祖父母から、るるちゃんの娘まで、四代にわたって、繋げてきた「秘密」のバトンなのだ。
結構な数の人々やら家やらが、これがあるために身軽になれない、という何かしらの鎖に縛られていないだろうか。
これさえ片づけば、片付きさえすれば、いつでもお迎えが来てもいいのだけれど、という話をわたしはつい最近身近な老人から聞いたのだ。
そして、わたしもまた、自分たち夫婦が、世代交代する前に片づけなければならない先代からまわされた結構面倒な課題を思う。
るるちゃんの書く、これも一つの鎖であろう。
どんなに奇異なものでも、それを背負った重さは、たぶん、私たちの背負った重さとさほど変わらないのではないか。
他人の家の「秘密」になど首をつっこむものじゃないよ。どんな秘密であれ、知ってしまって気分よくいられるものではない。(自分だって別の「秘密」に縛られているのだからね。)
しかし、同時に秘密は甘美である。
一人の人間、そしてその一人を取り巻く人々、家族をめぐる百四十年。彼らがどのように生き、どのように「秘密」と向かい合ってきたのか、絢爛とした絵巻物のようだ。


るるちゃんの文章を読みながら、そう思った。
けれども、何事にも違う見方があるものだ。
どんなに優れた文章でも、それは、物事の一面でしかないのかもしれない。
最後に添えられた「追記」には、かの人の名が付されている。突然現れたそれに、どきっとした。


一言で言えば裏を返したような。(そしてどの手記もどの思い出話も、主観であり、客観的な真実ときっと程遠いのだろうと想像する)
恐るべき「秘密」は血肉の通った人間である。その生きざまは、構えもなく、悲壮感もなく、あまりにあっさりと・・・ごく普通であった。
本当は、そう言いきってしまうのは抵抗がある。
語るに語れない重石を最初から背負って生きていたわけだから。絶えずそれを感じないでいられなかったのだから。
だから、この「普通」は、早くに受け入れた「絶望」から芽生えた「普通」だろうか。
それだけではないような気がする。
るるちゃんの文章のなかで、長く一家の食卓を預かってきた料理人の言葉で「おかえさまはおかえさま」というのがあった。
おかえさまはおかえさま。パンダはパンダ。そのように生まれおちてそのように生きることは当たり前のことなのだ。
そうだとしたら、るるちゃんが書いてきたことは、あの人に対する彼女の感情や考えは、自分自身に対するものではなかったのか。
ほかならぬ自分自身がここに生きてやがて死んでいくことの辛さ、気味悪さ、恐ろしさを、だれかを鏡にして語っていたのではないか。

あれはおかえさまなんでしょうかね? おとよさまなんでしょうかね?
何代にもわたって長く花を咲かせ続けるゼラニウムが蔵の白壁に映える。鮮やかに目に見えるようだ。