- 作者: 安東みきえ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/09
- メディア: 単行本
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子どもは5歳までに一生分の親孝行をしてしまうのだ、と誰に聞いたのだったか、どこで読んだのだったか。
小さかった子どものかわいさを思い出すとき、それはほんとうだ、と何度も思う。
ここまで全面的にわたしのことを受け入れてくれた人は、小さかったわが子、あなたたちだけかもしれない。
(今は少し憎たらしい)
「呼んでみただけ」などという言葉を聞けるありがたさ、こういう日々を贈られたことを思うなら、
その後、どれだけケチョンケチョンにけなされても、何度も心臓に悪い思いをさせられても、おつりがくるくらい、一生分の宝物。
(・・・かも。でも、たいていの場合、こういうことは忘れています)
懐かしいなあ、こういうことあったなあ、と思ったこともたくさんあった。
たとえば、寝しなに、子どもにお話を聞かせながら、うとうとして、変なことを口走ってしまうこと。
子どもが一人遊びをするのを息をつめてこっそり眺める楽しみ。
それから、いきなり掌に小さな手をすべりこませてきた、思いがけないぬくもりも・・・
よく似たことがあったのよ、とそれは、映像で思い出すよりも、その時々の体温となって思い出します。
遊太のママの語るお話と、
遊太の現実とファンタジーが混ざり合った世界(子どもってそういう世界に住んでいるんですね)とが、
さりげなくも温かい生活の中に混ざってきます。
それはほんわかとした幸福なおとぎ話に見えるけど、実はかなり怖かったり暗かったり・・・
子どもをとりまく世界は不安定で、大きな不安がとりまいているのかもしれない。
たとえば、「大地のえくぼ」というお話。
語ったのはママです。
このお話のラストのおもいがけなさに、「え?」と思う。そして、これはいったいどういう意味なんだろう、といつまでも考えてしまいます。
ママが語るお話は、遊太の求めに応じて、変幻自在、
昔書きためたお話が元だったり、その場の即興だったりするのですが、
物語に潜む不安はいったい何だろう。
これは子どもの遊太の、子どもなりの不安とは色合いが違います。
こじつけっぽいのだけれど・・・母である自分と一体になっていた子どもを自分の肌からやがて離さなければならない不安だろうか。
苦しみの多い世の中に子を送りだすことへの痛みだろうか。
そんなことを思いながら読んでいました。
また、遊太の日常に混ざりこんだファンタジーな世界は、大きな暗闇に引き込まれそうな危険を持ちながら、
その一方で、不吉なものを浄化する力も持っていたりもする。
「へそまがりの魔女」の「呪い」のような不思議で皮肉(?)な秘め事が、喜ばしくもほんとうにおこることがある。
それは、こちらが望むとおりにきちんと折り目正しく起こるわけではない。
そう、「ふっくらすずめ」のように。
子どもの世界は、どうなっているのだろうなあ。
子どものそばで、子どもをとりまく世界の混沌と、混沌から湧き出てくる不思議に驚き、感動する。
ああ、この子といっしょにいられたこと、
この子の世界の深さ広さをすぐそばで見させてもらえたこと、
それはこんなに幸せなことだったんだ、と「呼んでみただけ」という言葉を贈られたわたしの幸福な時代を思い出しています。