岳物語 (定本 岳物語)

定本 岳物語

定本 岳物語


初読みのはずなのに、覚えのある話がちらほら・・・あちこちで断片的に(短い引用とかも含めて)読んでいたんだ。
そして好き、と思って覚えていたんだね。
でも、まとめてちゃんと読むのはやっぱり初めてです。
岳少年をまるごと受け入れ、見守る「おとう」のおおらかさがいい。
オヤバカと椎名誠さんは言うけれど、そのバカさ加減に共感したり、はっとしたり、自分を顧みたり・・・
そうして、なんてすばらしいオヤバカ、と思う。


岳少年はどんどん成長していく。
それを映し出す椎名さんの文章が時々寂しく感じられる。
いつか子は親離れしていく。
だんだん離れていくのだろうか、その日が突然訪れるのだろうか。
おだやかにやってくるのだろうか、嵐のようにやってくるのだろうか。
・・・それはだれにもわからない。
椎名誠さんはその日をちゃんと覚悟している。
だけど、その日が来るのはやっぱりさびしいし、さびしいから、多忙な日々のなかで、息子との時間を、この「今」を大切に慈しんでいる。


子どもって大きな驚きの連続だ。ずんずん大きくなる子どものエネルギーは、大人にとっては、たくさんの気づきと感動に変わっていく。
親にとっては大切な本だ。共感する読者にとっても。
だけど、子どもにとっては? 子どもにとっては当然だけど親と同じではありません。


最後にほかならぬ「岳」さん――大人になった「岳」さんの「あとがき」がある。これがとてもとても・・・よかった。
わたしは「クマのプーさん」のクリストファー・ロビンを思い出していました。
おとうさんが息子のために作ったお話から生まれた本「クマのプーさん」のなかのクリストファー・ロビンの存在感があまりに大きすぎて、
本もののクリストファーさんはその後ずっと辛い思いをされたそうだ。
クマのプーさん」のクリストファー・ロビンと同一視されることをひどく嫌ったそうだ。
「プー横町にたった家」はいきなり終わっている。クリストファー・ロビンが森を出ていくところで。
この唐突な終わり方によって、父は急いで子を本から助け上げてやろうとしたのではないだろうか。


でも、こちら「岳物語」は反対。本物の「岳」のほうが自ら本の中に入ってきました。
「あとがき」という形で「僕はこの本が嫌いでした。大嫌いでした」ということばを言うために。
「嫌い」と言い切る言葉にほっとしてしまう。
岳物語」の岳と自分とは別物であることを自分の言葉で告げる。
素敵に逞しくて、なんて爽やかなんだろう。
そして、この「岳物語」がよりいっそう好きになりました。