人間失格

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))人間失格
太宰治
新潮文庫


人間というものがわからないのだ、と葉蔵は言います。

>・・・考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全くちがっているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。
人間がわからない、人間が怖ろしい・・・
葉蔵の人生は悲惨で、恐ろしい人間のあいだでアップアップしながら、あっちに流され、こっちに流され、
あらがうこともできず、あらがうことができるとしたら、ただもう死ぬ以外になかったのだろうか。
考え方を変えることは・・・できなかったんですね。
考え、というより持って生まれた何かなんだろうか。
なぜこんなふうになってしまったのだろうか。今さらなぜ、と思っても無意味なんだろうか?
人間が怖い・・・そう感じるようになったのはなぜなんだろう。
すごく感受性が強いのだとは思う。だけど、恐怖は・・・育ちのせいなのだろうか?
大家の、大勢の人間に囲まれ、母親のすぐ近くにいながら、すごく遠い子どもだった。
そういえば『斜陽』でも、母は憧れの人で、限りなく気高く美しいのだけれど、そして優しいのだけれど・・・
親子というにはあまりにみずくさい感じだったのです。肌と肌を寄せ合うようなぬくもりがない。
欲しいものはすぐ目の前にあるのに手が届かない。
ほかのものはもうなんでも、ほしがるまえに与えられているのに・・・そういうことも関係あるのだろうか。
ほんとうはわからないです。


最後に「あとがき」のなかで、スタンド・バアのマダムの言葉として「・・・神様みたいないい子でした」
「神様みたいないい子」という言葉に、一瞬にして醒めてしまった。
そして、その言葉と葉蔵が演じ続けた「お道化」とが重なる。
弱虫のくせに、プライドが高くてナルシストなんじゃないか。
「神様みたいないい子」は、(獣のような?)人間を怖がりながら、オ道化ながら、白々と醒めて見下しているじゃないか。
侮蔑しているじゃないか。


『ノック人とツルの森』のアディーナのことを思い出す。
特殊な環境で育ち、外の人間に接触するのは学校に入学したとき、というアディーナ。
恐ろしいと思っていたノック人(家族以外の人間たち)のなかに入っていく。
やがて、おかしいのは自分の方だ、と思う。
でも、アディーナはお道化にはならなかった。卑屈に頭を下げたり愛想笑いをすることもなかった。
超然とあえて一人になりながら、周囲の人間たちへの好奇心を旺盛に働かせる。
やがて、周囲の人間たちを怖がる必要がないことを知る。彼らの中のよいものとわるいものを冷静に観察し始める。
アディーナも葉蔵に負けず劣らずプライドが高い。だけど強かった。アディーナの勝利は、恐怖に打ち勝つ強さのせいかな。


葉蔵は、恐怖に打ち勝つことができなかった。
そして、生きていく(サバイバルの)方便として、お道化になることを選んだ。
お道化として、卑屈に低くなればなるほど、プライドはますます高くなっていくように見える。
その高低の間に大きな虚無が広がっているようで、その虚無にのみ込まれてしまったように思えてならない。
人間失格」・・・自虐な言葉。でも、同時に甘美なナルシズムに酔っているようにも思えます。
作中で、葉蔵は堀木と、対義語(アントニム)と同義語(シノニム)の当てっこ遊戯をしています。
国語の試験問題に出るような対義語や同義語ではなく、ひねくれています。死の同義語は生なのだから。
そのやり方に従えば、ナルシズムと自虐は同義語のように思います。
どちらも病的。同義語としてのナルシズムと自虐の『人間失格』だったのかもしれない。
そして、それは生の同義語の死につながっていたのだろうか。