クレスカ15歳 冬の終りに

クレスカ15歳 冬の終りにクレスカ15歳 冬の終りに
マウゴジャタ・ムシェロヴィチ
田村和子 訳
岩波書店


1983年、冬のポーランド
ワレサ」という名、「連帯」と言う言葉は聞いたことがあっても、ポーランドがこの時期、どんなだったか、わたしは何も知らなかった。
訳者あとがきで易しく説明してくれた社会情勢のこと。そして、そのために、作家が、はっきりと書くことができなかったことなど。
ああ、そうだったのか・・・
食糧難、配給制、買い物の長い行列。
失業、先の見えない未来。
そして、何よりも、亡くなったわけでもない、行方不明なわけでもない。
それなのに、「いない」家族のこと。「いない」家族の事情は何も書かれないけれど、行間からあふれ出す心痛や思慕・・・


舞台はポズナニ
『嘘つき娘』のアニェラたちの町です。
聞いたことのある通りの名前などが出てくると、アニェラ、今頃何をしているのかな、と思います。
この物語に出てくる人たちは、『嘘つき娘』の誰かのゆかりの人たちもいるのでしょうか。
しまったなあ、前作の登場人物の名前、ちゃんと覚えておけばよかったんだけど・・・
ポーランドの人の名前や愛称は、難しくて、なかなか覚えられないのが悲しい。


「あとがき」でいろいろなことに納得するのですが、
それまで待たなくても、暮らしにくい時代なのだ、強いられている我慢があるのだ、ということは読んでいれば、わかります。
けれども、ここで暮らす人々の明るさ。
ことに、豊かとはいえない地下アパート(?)に暮らす人々の垣根のない交流には、温められました。
各戸のカギは、中に人がいれば、ほとんど掛けられることはなさそう。
ノックひとつでいつのまにか近所の人が家の中に入ってきても驚くこともない。
食事に、いきなり人数がひとり増えることも驚くにはあたらない。
増えた人がどこのだれか、という問題は二の次で、
相手がおなかがすいている、この家でご飯を食べたがっている、ということが一番大切なことのようで、
この本のなかのあの家もこの家も、あの人もこの人も、突然のお客には、何も訊かず、自分たち家族同様にたっぷりふるまっていました。
また、困っている家へ差し伸べる手。食事の差し入れ、用事を頼んだり頼まれたり・・・。
ときに鬱陶しくもあるけれど、少なくとも共同体としての信頼に結ばれた人たち。
この近しい近所関係は、たぶん、日本にも嘗て、あちこちにあった。なんだか懐かしいのです。


魅力的な登場人物たちです。
たくさんの登場人物のいったいだれが主人公でしょうか。
だれもが主人公でした。
ぽつぽつと次々に現れる人々、それぞれの抱えた解決不能な悲しみや悩み、それは辛いことですが、それでも彼らは不幸ではないのです。
それぞれが輝いている。人々のつながりによって輝くのです。
最初はまるで接点のなさそうだったたくさんの人たちが、みんな繋がっていました。
(現実の世の中もまた、そういうものなのかもしれません。関係ない、と思うあれこれもみんな繋がりあい関わり合っているのだろう)


愛することがへたくそな人たちもたくさん出てきました。
なぜこんなに不器用なんだろう。自分をちゃんと大切にしていないせいかもしれません。
若者たちの若くてホロ苦い恋心。子どもを深く愛しているのに愛し方が不器用な親たち。生徒たちをうまく導けない教師。
そんな人たちの間を神出鬼没の6歳の少女ゲニョルカが、駆け回る。
妖精(または子鬼?)のような彼女の目で世界を見れば、街は広くて明るくて楽しいフィールドです。
彼女の奔放さ、したたかさが楽しいこと。(でも、ほんとは彼女もまた傷ついた一人のさびしい子どもでした)


そして、ドムハヴィェツ先生の言葉が明るく輝きます。
孫娘が「何もかもがつまらなくて、汚く見えることってある?」と尋ねたときの返答。
「よくあるさ。いや、しかし、全部ではない。どんなことがあっても、偉大で純粋で美しいものがある。どんな変化にも屈しない永遠のものがある」
素直にこの言葉にうなずける心でいたいものだ、と思います。
それを、照れず、子どもたちに自信を持って伝えられる大人であれたら。
そのためには、大人もまた、レッスンが必要なのかもしれません。


誰もが主人公・・・だれの人生も、だれの生きかたも気になります。
他人とは思えないほどの近しさ、リアルさがあるから。苦しみの中のほがらかさ、貧しさのなかで分かち合う豊かさ・・・
さりげないけれど、こういうことが、彼らの人生を輝かせていました。
そして、一番小さな登場人物・・・この子のことがやはり一番気になったのでした。
ハリネズミちゃん」には泣けました。なんだかありがとうと言いたくなった。


(ぼそり、クレスカへのひとりごと。レルイカのほうがいいのにな。)