螺旋

螺旋螺旋
サンティアーゴ・パハーレス
木村榮一 訳
ヴィレッジブックス


まぼろしの作家トマス・マウドによる『螺旋』という本。
これは二十一世紀の『指輪物語』なのだ。
いずれは『オデュッセイア』や『神曲』、『ドン・キホーテ』と並び、時代を超えて読み継がれることになるだろう。
というのに、その作者を知る者はだれもいない。本の出版社にも。
ところが、出版社に二年ごとに一巻ずつ送られてきた『螺旋』の原稿が、五巻まで送られてきたあと、
続巻が五年待っても届かない・・・
作者はピレネー山脈の奥深いブレダレッホ、人口六百人ほどの小さな村の住人であることがわかったという。
編集者ダビッドは、社長命令で、極秘のうちに作者を探し出して、首尾よく続きを書かせる任務を負って、
現地に向かう。
手がかりは、作者愛用のタイプライターの種類、サインの筆跡鑑定による作者の性格、
そして、一番頼りになる情報は、作者の手の指が六本ある、ということ。
ところが、いざブレダレッホについてみれば、なぜか六本指の人間はごろごろいるわ、
あれこれ詮索するうちに変人に間違われるわ、
結婚生活継続の危機に見舞われるわ、大変なことになってきました。
これは喜劇か?


マドリッドに点々と星のように散らばったささやかな人々の生活と、
ピレネーの山村の素朴でおおらかな人々の暮らしを巻き込んで、
一冊のまぼろしの本とその作者を中心に、まさに螺旋を描くように、物語はめぐり、おどる。
『螺旋』もまた、出版までの手から手への過程、出版後の読者の手から手への過程、
これもまた螺旋を描くように、めぐり、おどる。
一冊の本が、作者も編集者も知らないところで、様々な人たちの人生を変えていく様がおもしろい。
本は確かに人を呼ぶし、人もまた本に吸い寄せられていくのかもしれない、と思ったのでした。
幸せな、本との出会い。
いろいろな方向から集まってくる、人々の本への思いに、わくわくしています。


そして、本が書かれるということの本当の意味。
一冊の本が生まれる、ということは、それだけで大きな物語なのだ、と感じます。(作者にとって、だけではなくて)
物語は、人がいなければ存在しようがないけれど、
逆に、人がいるところには、必然的に物語が生まれてくるのだと感じます。
すでに書かれた物語、これから書かれるかもしれない物語。


ダビッドは作中で問いかけます。「作家と作品を比較した場合、どちらがより重要だろう」と。
作者の命には限りがあるけれど、作品は永遠に生きつづける。
そうなんだ、と思いました。作品が生きることで、作品の中で作者もまた生き続けるのではないか、と思いながら。
でも、本当にそうでしょうか。
さまざまな経験のあとにダビッドは再び自問します。
「一人の人間と本とでは、どちらがより大切か? 答えは言うまでもなく人である」
もっと言えば、人なくして、物語が存在することにどんな意味があるのだろう・・・
ダビッドがこのように考えるようになったのは(そして読者であるわたしもまた、了解したのは)、
もちろん理由があるのです。美しい理由が。
そして、その理由は、本が生まれる、ということの意味につながっています。


・・・このように語られる本の読後感がよくないはずがないです。
最後のページを閉じるときは、すべての登場人物と別れるのが淋しかった。
読み始めたときは、全くの他人だった彼らが、いつのまにかわたしの親しい隣人に変わっていました。
そして、彼ら一人ひとりにはこの本の続きの物語があります。
さらに大きな螺旋の中で、冒険していくに違いない。
一見つつがない日々の中には静かな冒険とかけがえのない物語が満ちている。
彼らの続きの物語を思い浮かべています。

「・・・あの小説を読んでいないほうがよかったかな…」
「あら、さっきはいい小説だとおっしゃったんじゃありません?」とエルサが口を挟んだ。
「最後まで言わせてくださいよ。あの小説を読んでなければよかったというのは、それだったらまたゼロからあの小説を読んで楽しむ事が出来るという意味なんです」
こんな本に出会えることはなんという幸せでしょうね。