たまごを持つように

たまごを持つようにたまごを持つように
まはら三桃
講談社
★★★★


中学弓道部の物語です。
弓道を愛する幾人もの中学生が出てきました。
それぞれみんな行ってくるほど性格も違う、弓道を始めた動機も違う、そして、弓を引く時の心構えや気持ちもみんな違うのです。
それぞれが抱える背景も違う。思春期なりのそれぞれの思いの複雑さも違っています。
弓道を愛している、といいながら、そこに向かう気持ちが、ほんとに性格が十人十色であるように、こんなにも違いました。
そうしたそれぞれの違いが、一つの、たったひとつの美しい形の集中の中に吸い込まれていきます。
何もかもが無になり、一になり、この一矢、この一射に収斂していく。
ぴんとひきしまったストイックなまでの瞬間のこの美しさ。
すべての音が消えるりんとした一瞬。読んでいる、というより見つめている、息を呑んで。


この文章全体の気配は、なんだろう。
特別凝った文章ではないと思うのですが、清められた道場の冷たく引き締まるような美しさが伝わってきます。
しかも、春のようにやわらかくて、優しくて、気持ちがよいのです。


光陵中学弓道部の二年生三人。それぞれの成長を追っていきます。
弓道という形の中で。
弓道は、立禅といわれ、弓道の目指す心は「真、善、美」とのことです。真なるものは善であり美に通じる、という意味だそうです。
無駄のない美しい所作、そして、とりわけ矢が離れるときの音、などに、
彼らの迷い、彼らの苦しみ、そして、彼らの乗り越えた凛々しさが描かれます。
とりわけ印象に残るのはスランプに陥った少女が光を見出したときの一射です。
読む、というよりすぐ近くで見ている思いでいたのですが、この一連の所作は息をつめて見守りました。
音が消える。
すべてが終わったとき、わたしもまた、深々と頭を下げたくなったのです。
そのあとの文「新たな年が、もうすぐ始まる」のなんという清清しさ。


試合もあり、上を狙う競技でもありますから、もちろん勝ち負けへのこだわりもあるのですが、
その勝ち負けを超えて、「正射」という判定があることを知りました。
これは(弓道を知らないわたしはこれがどんな意味なのかわかりませんが)
勝ち負けよりも尊い、己に対する勝ち、無心の美をあらわす言葉のように感じました。
がむしゃらに勝利に向かって突き進むのではなく、「五秒待つ」ではないけれど、一歩引くくらいに、世事から離れ、すっと無心になる。
そこに自分を置くことに集中する・・・物語をたとえれば「白」です。


たくさんの忘れられないエピソードを残して、若者たちの夏が終わっていきます。
彼らは、ただひたすら無心になる一瞬をめざし、弓を引き続けてきました。
そうしていつのまにか、確かな足跡が残っていました。ラストの一章には、やっぱりぐっと迫りくるものがあるのです。
それぞれの成長がそれぞれに清清しく、乗り越えた無心のこの一射がまぶしい。光のように飛ぶ矢がまぶしい。
ほんとに一瞬なんだろう、目にもとまらないくらいの。
でも、ここではスローモーションのように、見える。
彼らの思いが、彼らの中学時代が、飛び立っていく、未来に向かって。
なんて気持ちがいいんだろう。なんてまぶしいんだろう。
中学生たち、どの子もどの子もすてきだ。どんな歩き方も正解なんだ、と思う。
ただ、自分の道を自分の思うように進め。