窓ぎわのトットちゃん

窓ぎわのトットちゃん (講談社 青い鳥文庫)窓ぎわのトットちゃん
黒柳徹子
講談社 青い鳥文庫
★★★★


1981年に出た本なのですね。では、もう、かれこれ30年近くたつのですね。そして、わたしも約30年ぶりにこの本を読んだということになるわけです。
なつかしいトットちゃん。ひとりひとりを大切にするすばらしい先生。楽しいこといっぱいのすばらしい毎日。初めて読んだとき、いちいち目を瞠り、憧れました。こんな学校があったらいいのに。こんな学校に通いたかったと。

小川洋子さんの「心と響き合う読書案内」で、この本がとりあげられているのを読んだことが再読のきっかけです。
・・・よく覚えているつもりでしたが、トットちゃんのおかあさんが、小学校入学後わずか数ヶ月で退学になったわが子をドンと受け止めて「待つ」ことができる人だった、という話を読んだとき、お母さんという人がわたしの記憶の中から完全に抜け落ちていることに気がついたのでした。
トットちゃん」に初めて会ったとき、わたしはまだ学生でした。子どもどころか、もちろん結婚なんて考えてもいなかったころでした。自分の夢を追うことでいっぱいのころでした。母親になる自分の姿なんて思い描きようもなかったし、自分の親の気持ちなどちっとも考えなかったんだなあ、きっと。
今、この歳になって、若いときとは違う読み方ができるのではないか、と思っての再読です。

読む前からおかあさんをポイントにして読もう(^^)と決めていたせいもあるのですが、やっぱり、すてきなおかあさんなのでした。
まず、学校を変ることになったいきさつを子どもには一切告げず、ただ、この子のうちにあるこの子の善良さを信じたのでした。のちのち、トモエ学園の校長先生がずっとトットちゃんに言い続けた「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」を、このおかあさんは、言葉ではなく態度で娘に示していたのでした。
トモエ学園がどんなにユニークで素敵な学校だったか、この本に書いてあるとおりなのですが、戦前のあのころ、この学校をこのおかあさんはどうやってみつけたのでしょうか。あの校庭に電車の貨車が何列も並んだ光景や、全校で50人程度の児童しかいない学校を、時間割のない授業を、おかあさんは娘のために選びました。たとえ前の学校を退学になって受け入れ先を探すのが困難な状況であったとしても、これは大変な決断だったと思うのです。
このへんの事情は何も書かれていないのですが、こういう選択をする心の自由さが、トットちゃんを現在の黒柳徹子さんと言う人に育て上げた理由かな、とも思います。
毎日鉄条網の下をくぐって遊んで洋服は愚かパンツまでびりびりに破いて帰ってくるトットちゃんが、そのびりびりの理由として途方もない作り話をでっちあげても、「あら、そう、たいへんだったわね」・・・このおおらかな受け止め方にはへへーっと頭がさがるダメ親のわたしです。
この本でおかあさんのことが書かれるときに、文章から行間からにじみ出る黒柳徹子さんのお母さんへの賞賛の気持ち。心から尊敬し自慢に思っているのを感じます。そんなふうに育てたおかあさんだったのですね。

そして、トモエ学園や小林先生のすてきさには改めて目を瞠りました。一度読んだはずなのにかなり忘れていて(覚えていても)、何もかも新鮮でした。
ことに好きなのは、はだかでプールに入ること。大きい子も小さい子もみんな裸なのです。「どんな体も美しいのだ」という一文に、はっとしました。ハンディッキャップがあるとかないとかに関わらず、一人として同じ子はいない、そして、どの子もみんなすばらしいということをこんな形で教えてくれたのがうれしかった。
運動会のごほうびが野菜というのもいいですね。自分が頑張って自分の力で手に入れた野菜。これを今夜家族みんなで料理して食べるのです。こんなに誇らしいことってあるでしょうか。

トモエ学園の実践のあれこれは、全て、子ども達一人ひとりを大切にして、ひとりひとりの未来を見据えての教育でした。これが70年前に本当にあった教育なのです。
70年も前の学校の姿が、今なお新鮮であること、深く温かく(厳しく)確かな考え方に基づいた方法が、未だに「新しい」と感じることに、小林先生がどんなに啓けた心の持ち主であったかを思います。「トットちゃん」の本が世に出て、トモエ学園が広く世に知られるようになってからでさえ今年で28年です。そうして、その後、日本の学校教育は進歩したのか、よくなったのか、子どものことを本当に理解し、大切に育てようとしているのか、と考えます。トモエ学園から70年も経つのに! 
・・・これだけユニークな教育が行われているのに、トモエ学園の存在は当時ほとんど知られていなかったそうです。
それは校長の小林先生が宣伝を嫌ったせいでもあるのです。
では、現代もまた、宣伝もしないで、この精神をひきついでいる学校が、私の知らないどこかにあるのかもしれません。
あのころのトモエ学園をそのままの形で現代にもってくることはできないとしても、その心を受け継いで、もしかしたら、さらに試行錯誤して発展させて、子どもたちを育てている学校が。ないかなあ。あったらいいなあ。あるいは、形にならなくても、子どもに関わる大人たちの心のなかに、たとえ小さくてもトモエ学園の心が宿っていたらいいなあ、と思うのです。(それはもちろん、教育者でもなんでもない名無しのおばさんの私自身も忘れないようにしたいことです)

この本のあとがきの最後の行に日付がわりに記されていたのは、
1881年。――中学の卒業式に、先生に暴力を振るう子がいるといけない、ということで、警察官が学校に入る、というニュースのあった日」
・・・今は2009年の春。わたしの住むところの中学校の卒業式では、今年もパトカーが待機していたそうです。でも、そんなことはもはやニュースにはならないのです。悪いほうで、あのころ不思議に思ったことが当たり前になってきているのだとしたら、それは、若者たちの親のひとりとして悲しく情けないことです。