『ふくろう模様の皿』  アラン・ガーナー

ケルトの神話「マビノギオン」の、花とフクロウの神話が色濃く残る(そして、定期的に神話のままの悲劇が繰り返される)ウェールズの谷。
アリスンとロジャとグウィンはある夏、この谷の屋敷で過ごした。
アリスンとロジャの親同士が再婚し、この谷で子連れのハネムーンを過ごし、互いに家族になるために、夏休み、この屋敷にやってきたのだ。どこかぎこちないホワイトカラーの家族。
グウィンは屋敷の家政婦の息子。アリスンたちと対等に付き合いながらも、階級の違いを意識している。そして、非常に頭の切れる少年でありながら、自分の将来に閉塞感を感じている。
アリスンの部屋の屋根裏で、花模様のディナー皿のセットを見つけた日から、不思議なことが起こり始める。
皿の花模様が、実は、図案化したフクロウをばらばらにしたものだと気がついたアリスンは、憑かれたように、その図案を紙に写し取ってはフクロウの形に仕上げていく。仕上げられたフクロウはみな、いつの間にか消えて、皿の模様も消えてしまう。
そして、フクロウが一羽二羽と仕上がるにつれて、屋敷の地下の遊戯室では、不自然に塗り固められたモルタルにひびがはいり始める。
屋敷の外では、作男のヒュー・ハーフベイコンが空を見上げてつぶやく。「彼女が来る」
そして、「屋敷には三人。また三人…」とウェールズ語でささやきあう村人たち… メドウスウィートが咲き乱れる谷間で…
これはホラーか、と思うくらい怖いです。そして、この雰囲気。暗く垂れ込めた空、高い山に囲まれた盆地の風景が重苦しくのしかかってくるようです。

「だが、だれひとり悪いものはおらないのだよ。みんなお互いを破滅させあっているのさ」
ヒューのことば。これが、物語の核。誤解と無理解。
訳者あとがきの中で、「本質的には人間の物語である。ガーナーもそのつもりになれば、ファンタジーの要素を全然つかわずに書けたにちがいない」と言っているように。 (しかし、ここで、ファンタジーの要素が抜けたら、やはりこれは魅力が半減してしまうでしょう)

アリスンに激しい思い(愛情と憎しみが交じり合った)をぶつけるグウィン、気位が高く居心地の良い安全な場所を出て行く勇気のないアリスン、そのために相手を傷つけ、自分も傷ついていく。そして、自分の傷をかきまわすように、グウィンに悪意のある言葉をぶつけ続けるロジャ。
わたしが読んでいるのは「嵐が丘」か、と錯覚するくらい、この世界は暗く閉ざされていて、激しい風が吹き荒れている。
アラン・ガーナーの描く子どもたちは、子どもとして居心地の良い場所に座っていられない。激しい感情に揺さぶられ、揺さぶられて出来た隙間に神話の禍々しい力が入り込もうとしている。

後半、封印された謎がひとつずつ解き明かされていく中、浮かび上がってくるのは、繰り返される神話の悲劇。
三人の中の誰かが死んで(狩られて)終焉を迎える悲劇。
今度はだれ。まさか・・・と苦しくなる、嵐の夜。

・・・そして、ラストシーンへ。悲劇の循環を断ち切ったものは・・・人間の物語は人間の全うな力で幕を引かなくては。
降り注ぐ花びらの神秘的な美しさは、この話のラストシーンに相応しい。
読み終えてほっとしたが、今もまだ、ウェールズの谷で、暗い空の下、花たちが、フクロウになる日を待って、強い風になぶられているような気がする。
メドウスウィートの咲き乱れる谷間で・・・