『ビッグフィッシュ ~父と息子のものがたり』 ダニエル・ウォレス

 

ビッグフィッシュ―父と息子のものがたり

ビッグフィッシュ―父と息子のものがたり

 

 

「ぼく」の父は死にかけている。
父に寄り添いながら、「ぼく」は父が嘗て語ってくれたお話を思い出す。父のお話で、父の人生を振り返っていく。


父さんが生まれた時、雨雲が湧きだし、長く日照りが続いた大地に、待望の雨が降った。
子どもの頃から大物で、動物と話ができたし、普通の人間の二倍はある大男と渡り合ったこともある。
こんなふうに人生を始めた父さんの物語は、最初から最後まで、ほら話、とんち話、ジョークの連続なのだ。
それは、死につつある、最後のときにも変わらない。神妙に死を迎えるような父ではないのだ。
寄り添う息子に語るのは、思わず吹き出すようなほら話ばかり。
病床にあって、むしろ、ますますさえている。


仕事で家を空けることの多かった父さんは、顔を合わせれば、いつでも「ぼく」を笑わせた。
「思い出すなら笑っているときのぼくがよかったし、思い出してもらえるなら、笑わせている自分を思い出してほしかったから」
父さんのもつ偉大な力のうちで、人を笑わせる力はずばぬけていたのだという。
父さんは言う。
「話を忘れないかぎり、相手はーーそれを話してくれた人間は、生きつづける。知っていたか?」


父さんの病床につきそう今を挟みながら、父さんが繰り返し聞かせてくれたほら話が、リレーのように続く。
お話には、それとなく息子の手も加わっている。
どこまでが父さんの言葉なのか、息子の思いなのか、わからない感じで混ざりあっている。
時には、ボケ役とツッコミ役を演じ、
時には、お話に、かすかなビターな味を加える。
どのお話も、見かけは嘘八百だけれど、中身は、そうとばかり言えない。


巻頭で、「ぼく」は、晩年の父とのあるエピソードをあげて、こんな風に言う。
「さまざまな姿、あの時代、この時代の父が混ざり合い、溶け合って、次の瞬間あらわれたのは奇妙な生き物ーー若いのに年老いていて、死にそうなのに生まれたばかりという、途方もない生き物に、そのとき父は姿を変えた。
神話になったのだ」
と。
(だから、この物語を読んだわたしが、ここにあるお話はみんなほら話だけど同時にほんとのことだ、と感じるのも当然なのだ、と思う。)


父さんが神話になったのは、父さんひとりの手柄ではない。そこに、父さんと一緒に笑い転げ、物語を心から楽しんできた息子がいたからで、神話を作り上げたのは、父と息子、ふたりなのだ。
最後のお話がすばらしい。
神話、という言葉はほんとにふさわしいかもしれない。
生きる日も死ぬ日も祝うべき日と思う。