『父の生きる』 伊藤比呂美

父の生きる (光文社文庫)

父の生きる (光文社文庫)


著者・伊藤比呂美さんは、老いた両親をみるために、長いこと、両親の住む熊本と自宅のあるカリフォルニアとを行き来していた。
長く入院していたお母さんが亡くなってから、一人ぼっちになってしまったお父さんが亡くなるまでの3年間のことがこの本には、書かれている。

>人がひとり死ねずにいる。それを見守ろうとしている。いつか死ぬ。それまで生きる。それをただ見守るだけである。でも重たい。人ひとり死ぬのを見守るには、生きている人ひとり分の力がいるようだ。
一人で暮らすお父さんの敵は「退屈」であった。
長い長い一日をやり過ごす父の日々であるが、これを「退屈」というしかないのか……。
何も興味がない、死にたいのに死ねない。本音をぶちまけて共感しあえる相手は、そばにいない。
献身的なヘルパーさんたちの活躍には頭がさがるばかり。生活していくのに不自由はないのだ。でもそれだから、余計に際立つ黒々とした孤独、不安。
「虚無のただなかで生きている凄まじさ」と著者は表現する。・・・わたしの行く手にもこんな老後が待っているのだろうかと思うとたまらなくなるほどの、それは「退屈」別名「虚無」。長い刻々のなかで死ぬこともかなわず、今日も明日もたぶん・・・その時まで生きていく。


日々死につつある父、その死までを綴った本のタイトルが『父の生きる』。
「死」が背中にすりよってきているのを感じながら、それがいつ、正面にまわってくるかわからないことを意識しながら、おびえながら、待ちながら、なすすべもなく、ただじっとひとところで過ごす時間を「生きる」という。
この「生きる」は、そして「生きる」を支えてきた娘にとっての「生きる」は、一音一音噛みしめるような「生きる」だった。


著者は、年に何度もカリフォルニアと熊本を往復する。熊本にいられないときには、毎日欠かさず電話する。
でも、カリフォルニアには守るべき自身の家族と生活がある。忙しく仕事もしている。
あちこちで、ぼろぼろと何かが崩れてしまいそうな日々・・・
それなのに、その奥深くに、何かゆったりとした明るいものを感じる。逝くものと残されるもの、ともに持つ灯り。
(こと介護が、そんなに生易しいものではないことはわかるのです。まして、二か国またいでの介護なんて。実際、親子が過ごした日々は、読むだに壮絶でした。そのうえで、あえて言わせてください。灯り、と)


たとえ誰かと同じ経験をしたとしても、同じ思いに至るわけではないだろう。
伊藤比呂美さんの誕生、そして成長。
親の老い、そして死。
二つの大きな川が結ばれ、からまりあって大きな環になっていく。
とっくに自立したつもりだった。けれども、そうではなかったのかもしれない。ずっと後になって、気がつくこと、まだまだたくさんあるのかもしれない。
そう思うとき、伊藤比呂美さんと父との日々、双方からの思いに、心動かされる。
介護、見守り、看とり……そうだっただろうか。そうだったけれど、それだけじゃなかった。それだけじゃなかったものが、読後、爽快感となって、心に残る。