『プーさんとであった日 〜世界でいちばんゆうめいなクマとほんとうにあったお話』 リンジー・マティック/ソフィー・ブラッコール

プーさんと であった日: 世界で いちばん ゆうめいな クマの ほんとうに あった お話 (児童図書館・絵本の部屋)

プーさんと であった日: 世界で いちばん ゆうめいな クマの ほんとうに あった お話 (児童図書館・絵本の部屋)


ウィニペグ、省略してウィニー・・・またはクマのプーさん。その名前は、おはなしとともに、沢山の人に愛されている。
でも、この絵本は、くまのウィニーについての、ほんとうにあったお話です。


小さな坊やコールが、おやすみ前に、ママのリンジーに「お話してくれる?」と尋ねます。「ほら、あのお話、クマさんの」
そうしておはなしは始まる。


第一次大戦がはじまり、従軍することになったカナダの獣医師ハリーは、途中駅で一人の猟師からコグマを買った。
コグマは、ウィニーと名付けられて、軍のキャンプのアイドルになった。
ハリーをはじめ、ウィニーを囲む人びとの笑顔は、揃いの軍服を着ていても、それぞれ気のいいとうさん、にいさんの顔である。連隊長も一兵卒も。
コグマの無邪気さが、揃いの軍服の中には、それぞれに違う顔があることを思い出させるようだ。
軍服を見ると気持ちがざわついてしまい、余計なことを考えてしまうのだけれど・・・
コグマの無邪気さは、戦争が人を無理やりにはめ込もうとしているものや、無理やりに奪い去ろうとしているものを、際立たせるような気がするのです。


はじめのおはなしは、クマのウィニーとハリーという獣医の、本当にあったお話だった。
かけがえのない伴侶に出会った人のおはなしだった。
合言葉みたいなのがある。
「あのコグマには、なにかとくべつなものを感じるぞ」
一番最初に獣医師ハリーがコグマにあったときに言った言葉だ。
クマのプーさん』の物語のなかで、クリストファー・ロビンがプーのことを、さも可愛くて仕方がない、という様子で何度も「ばっかなクマのやつ」と言っていたっけな、と思いだす。
それを別の言葉に言い換えたら、「なにかとくべつなものをかんじるぞ」という言葉になるのかもしれない。
君と僕との間に、なにか特別なものが生まれそうなドキドキする言葉。


「それでおしまい?」「おしまいなんてやだよ」とママのおはなしをきくコールがいう。
「まえのお話がおわらなければ、あたらしいお話ははじまらないのよ」とコールのママが言う。


おはなしの終わりは、あたらしいお話のはじまりなのだ。
合言葉は、やっぱり「なにかとくべつなものをかんじるぞ」だ。
この言葉は、まるで魔法のように、あるいはリレーのバトンのように、次の新しいお話に引き継がれる。
そして、さらに次のあたらしいお話に。(これは、思いがけず秘密の小箱の蓋が開けられたようで、私は小さな声で「あっ」と叫ぶ)そのときにもやっぱり、この言葉がちゃんと引き継がれているのだ。
「なにかとくべつなものをかんじるぞ」


おはなしがおわり、絵本をとじて、ここから今度は読者のあたらしいお話が始まるんじゃないだろうか。
きっと「なにかとくべつなものをかんじるぞ」という言葉が、私たちの日々のどこかに出てくる。
あたらしいお話は始まっている。