『土星の環』 ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト

土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)

土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)

>もっと話して、アシュバーナムの伯母様、もっと話して

いつまでも終わらない物語が語られるのを聞いているような、どうか語りやめないで、と懇願したくなるような、そんな読書である。
盛り上がりがあるわけではないし、次に何が起こるか期待することもない。ただ、巡る季節や風景の中をゆっくり歩を進める、その歩みを味わうような読書でもある。
実際、この本の副題は『イギリス行脚』――「私」は、イギリスのサフォーク州を徒歩で旅を続けるのである。
だから、これは旅行記。でも、ただの旅行記ではない。「私」の立つ地、訪ねる地には、空間、時間を超えて、見える景色があるのだ。
たとえば、ロウストフトの海岸線の向こうに見えるのは漁船だけではない。沖合に薄靄をついてあらわれるのは、帆を張ったオランダ艦隊。英蘭戦争の1672年の海に目の前の海は繋がって居る。


そうして、サフォーク州をゆっくりと歩く「私」と歩調を合わせながら、わたしは、見えるはずのない、でも目をそらせなければ見えるはずの景色をただ黙って眺めている。
第二次大戦下空爆を受けるドイツの都市を、ナチスの残虐を、そのナチスさえも沈黙させるほどのクロアチア民族浄化作戦の凄まじさを。
ある医師によって長い間所蔵されていた頭蓋骨や、レンブラントの絵画「解剖学講義」の解剖される遺体の主が、突然、身近な人間に感じられ、その死への悼みがわきあがってくる。
中国では権力を一手に握った西太后の元にも、イギリスの景色は繋がる。晩年、蚕室に籠って、無数の蚕が桑の葉を食む音を聴くのが好きだったという。
古今の不遇の死を遂げた人々やその家族のもとへも。


遠く近く、様々な景色はあらわれる。
人、そして建造物。
たとえば、ある荘園屋敷は、猟主亡きあと相続した料理人によって、競売に付された。
たとえば、エルサレムの神殿の模型を作っている男の話。燦然と輝くドームの丸屋根の金の円蓋は、サイズウェル原子力発電所の原子炉の円蓋を思い起こさせたという。


英雄たちの栄光も、建造物の威容も、都市の繁栄も、そして、名もなき人々の不幸も、あわあわと混ざり合って消えていくようだ。
過去に起こったことも、未来に起こるはずのことも、滅びが約束されていることを、繰り返し、思い起こさせる。
イギリスの町や海岸と、この世のあらゆる場所との光景が、混ざり合う旅である。繁栄する街と廃墟とをともに眺める。繁栄の内に瓦礫の山を見ている。廃墟のうちに命の流れるのを見ている。
難しいけれど、生も死も逆をいくものではないのかもしれない。


建造すること、繁栄すること、崩壊すること。
生まれること、生きること、死につつあること、死ぬこと。
過去、現在、未来。
ここ、そこ、あそこ、遠いかなた。
別箇のものではないのかもしれない。混ざり合って一体となるもの。