『あらしの前』 ドラ・ドヨング

あらしの前 (岩波少年文庫)

あらしの前 (岩波少年文庫)


オランダの田舎町に暮らすお医者さんオールト家の物語である。
五人の子どもがいるこの一家に、赤ちゃんが生まれるところから物語は始まる。
「(赤ちゃんを)だれからもらったの……」と尋ねる小さなピーター・ピムに答えるお父さんの言葉が美しい。
「神さまからだよ。ただ神さまだけが、あんなに美しいものをおさずけになれるんだ」


子どもたちはそれぞれに個性の赴くままに日々を送る。兄弟助け合ったり、陰ながら心配したり、腹をたてたり。
そして、日々のあれこれに、おどろき、考える。傷つき、悩み、苦しみ、やがて、それぞれの道へと抜けていく。
かしこくおおらかな両親の見守りのうちにあって・・・。
この物語は、たとえば『やかまし村』や『小さい牛追い』のような美しい家族の物語でありえたはずだ。ただ喜ばしい物語でありえたはずだ。
学校、シンタクロース、クリスマス。復活祭。楽しみな行事とともに季節はめぐる。


しかし、このとき、ナチスがどんどん勢力を伸ばしていた暗い時代である。
一家の楽しみごとには、最初から影がさしている。その影はだんだん色濃く、人びとの暮らしを覆っていく。
子どもたちの日常にも戦争は忍び入ってくるのだ。


ドイツから国境を越えて逃げてくる人びともいる。
オールト一家は、そのころ、ドイツから叔父とともに国境を越えてきたユダヤ人少年をひきとり、家族として迎える。
また、その年のシンタクロースの贈り物は極力縮小しようと考える。戦争の犠牲になった人たちのために使いたいと願って。


ナチス・ドイツがまもなくオランダに侵入してくるのではないか、と噂が流れる。一方でそれはデマだとの噂も流れる。
防空壕を作らねばならない、いいや防塞線の内側の都市へ引っ越したほうがいい、という人びともいる。それは戦争心理に踊らされているのだ、との非難もある。
みな不安なのだ。みな何かを怖れている。しかも何を怖れているかも、本当はわかっていないのかもしれない。
人びとの気持ちが、不安が、恐怖が、痛いほどに伝わってくる。
人びとの信望が篤く、家庭では良き父母であるオールト家の両親もまた例外ではないのだ。
(どうか平和のうちにこの子らが大きくなりますように、戦ったり憎んだりするのではなく、自分の力を尽くして世界をもっとよくするために働くことができますように・・・)
家族のなかで、意見がいくつもに分かれてしまう。
一番小さな子でさえも、「戦争」について考えをもっているのだから・・・

>ほんとうに美しい夏の夜でした。空気には、よい香りがただよい、すべてのものが平和そうに見えました。
この美しい季節を心から味わうことのできた人が、この国にいただろうか・・・平和な情景描写は、不穏な皮肉だ。


戦争はいきなりやってくる。だれが予想したよりもずっと悲惨で残酷な戦争が。
だれが殺すもので殺されるものか、いいや自分自身の内側から放たれた武器が、自分自身を殺しているよう。


あっという間に終わる戦争。それは長い悪夢のような日々の始まり。
その始まりに、顔をあげるオールトおかあさんの言葉は、祈りのように美しい。
しかし、それよりもなお、彼女の最後の何気ない言葉が私には確かなものに思えるのだ。
「それでは、二階の患者たちのところへまいりましょう」
暗くても厳しくても、そしてどんなに苦しくても、それが日常。日常を力尽くして続けていく、今この瞬間も。