『原発事故で、生き物たちに何がおこったか』 永幡 嘉之

原発事故で、生きものたちに何がおこったか。

原発事故で、生きものたちに何がおこったか。

『銀のほのおの国』(感想)の「私たちはなぜ食べなければ生きられないのか」という問いかけが、『岸辺のヤービ』(感想)に繋がり、『ヤービ』で環境(自分もまたその一部なのだ)問題が提示され、それが、この本へ繋がっていく。・・・まるでしりとりのような読書が続いている。


人と環境とが互いに生かし合う関係だ、ということはわかるつもりでいたけれど、それが、こんなにも微妙なバランスのうえになりたっていたのだ、ということに驚いてしまう。
たとえば、耕作されない田んぼが、いま、一面に外来種セイタカアワダチソウに覆われている。
人のいない町をキジがあるき、イノシシの数は恐ろしい勢いで増えている。
無人の民家はネズミの巣になっている。
増えすぎた動植物がある一方で、ある場所では消えていくものたちもいる。モンシロチョウのように。
見えない世界、小さな小さな生き物たちの世界で何がおこっているのか・・・。
土の中の世界では、どうなのだろう・・・
その種だけの問題ではない。ある種が増えすぎること、消えていくこと、は、他の種に大きく影響していく。
それもこれも、持ちつ持たれつ、互いが影響しあってなりたっていたバランスのなかの、ただ人間だけが抜けた、というだけのことで、あっというまに、何もかもが狂ってしまうのか。


この世界から人が抜けたら原始の世界に帰るのではないか、と単純に想像するが、ことはそんなに容易なものではなかった。
それを、この美しい無人の地区が教える。


たとえば、タガメ。「タガメは人間がくらす前からいたのだから、人間が住めなくなっても生き続けられるはずではないか」という意見もあるのだそうだ。
しかし、タガメが本来暮らしていた湿地は、とっくの昔になくなっているのだそうだ。すでに人間が田んぼに作りかえてしまい、戻る場所はないのだ。
この新しい環境でタガメが暮らすためには、人間が田んぼで米を作り続けるしかないのだ。
旺盛な繁殖力を持ち、他の植物に生きることを許さない外来種セイタカアワダチソウも、人間がそこに暮らしていれば、毎年、他の植物を凌駕する前の早い時期に刈り取られていたはずだった。


そして、そのうえ、放射能がある。
放射能が生き物たちに何をおこしたのか、おこしつつあるのか。これからおこっていくのか。
(地道に研究、観察をつづける科学者たちに頭が下がる)


豊富な美しい写真をただ見ていれば、ほんとうに美しい里山の姿である。そこに生きるものたちの懸命な姿もまた美しい、と思う。
でも、どの光景も、傍からはちっともわからなくても、ヒトという種が抜けたために、あるいはヒトという種がやらかしたとんでもないことのせいで、あっというまに、とりかえしがつかないほどに何もかもが変わってしまった。変わり続けている。
思えば眩暈がする。もとにもどれないところまできてしまった。
元に戻すことができないなら、今、私たちにはいったい何ができるのだろう。
徹底的に手遅れになる前に、私たちはまず立ち止まり、この光景と向かい合わなければならないのではないか。