『アフリカの日々』 アイザック・ディネーセン

アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)

アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)


第一次大戦のころ、ナイロビ近郊で、コーヒー園を経営していた著者自身は、よき雇い主であろう、理解者であろうとしていた。それはとてもわかる。植民地主義の不平等も、彼女は強く感じて心を痛めている。
でも、そのように感じること・おもうこと事態が、嫌らしい言い方をすれば、強者から弱者への「ほどこし」のように見えてしまうことがあるのだ。
アフリカ人のほうがヨーロッパ人より優れた部分が確かにある、といいながら、その優れた部分(その比べ方もおかしい)が、後のいつかの時代に世界の中で重大な役割を果たすとは本気で思っていないし、
人との関係を語るときに、犬との関係を引き合いに出すことが奇妙だとも思わないのだろう。
(それは別の場面で、私自身にも、そういうものがあるのだろうと思う。気がついていないだけで。自分で見えていないってすごく怖い)
前に読んだ『崩れゆく絆』感想を思いだし、その真逆の立場から書かれた本を手に取って、そんなことを感じている。


ほじくれば、いろいろ出てくるのだけれど、それでも、やはりこの本は素晴らしかったのだ。
訳者あとがきにあたる「ディネーセン・ノート」に、こう書かれている。

>ディネーセンにとって、アフリカの自然とそこに住む人びとは、恋の相手にもひとしく、さらに、自分を解放してくれるふしぎな力を持っていた。
恋。ああ、そうだ、わたしはアフリカに恋い焦がれる著者の眼差しが好きだ。深い憧れとため息が好きだ。
「今この場所」から遠く隔たったゆっくり流れる時間に、つかのまではあったけれど身をおかせてもらい(アフリカの時間はゆっくり流れる)
遠い地平線のかなたで、沈みかけた夕陽の中で揺れながら眩しく輝いている・・・そういうあれこれを目をこらして眺めているような、
そのような読書をさせてもらったことを喜んでいる。
そして、この景色にもこの人びとにも、世界中どこに行っても決して出会うことができないことを実感しつつ、わたしもただじっとみつめ、ため息をついている。


それから、ヨーロッパの流儀が法になってしまった植民地で、奪われていく現地の文化・慣習(いずれ滅びてしまうしかないのではないかと思われる民族)を読む。
第一次大戦のさなかであることが重たい雲のように頭上にあるなかで、戦争由来ではない、いくつもの死について語られるのを読む。
滅びと死とを内包しながら、このおおらかな大地を踏んで、命たちは生きている。


痛みも喜びも、そして消すことのできない苦い思いもひっくるめて、それは著者だけの思い出の中のアフリカに違いないのだけれど(だから、厳密には、この本のままの世界は、いつの時代にもどこの土地にも本当には存在していなかったのかもしれない)
それを語る言葉から(そして訳者あとがきの助けも借りながら、)たちあがってくる著者の姿は、毅然として美しい。
どこにも寄りかからず、寡黙に、しゃんと背筋を伸ばして、ただひとり、立っているひと。
私は彼女のアフリカを見ているのか、彼女自身を見ているのか、わからなくなる。
どちらもなんと静かで、なんと美しいのだろう。