『犬が星見た』 武田百合子

犬が星見た―ロシア旅行 (中公文庫)

犬が星見た―ロシア旅行 (中公文庫)


一番最初に読んだ『あとがき』の中で、夫武田泰淳は妻百合子に向かって「やいポチ。わかるか。神妙な顔だなあ」といっていたのだ。
どきっ。
自分の連れ合い(だろうが誰だろうが)に向かって「やいポチ」などと呼びかける人間は、私には怪獣に思えた。
でも、百合子さんは、最初から「かいじゅう」ではなくて男の子を見ていたのだ。(「かいじゅう」で思いだすのは、「となりのせきのますだくん」です)
百合子さんの日記のなかで、武田泰淳氏は、かわいらしい男の子のようだった。
同行の銭高老人も百合子さんは「好きだ」という。
困った俺様老人と思われなくもないこの人が、百合子さんの筆の下で、ただかわいらしい男の子になっている。
かいじゅうはキグルミで、中にだれがいるのか、彼女はちゃんと知っていた。


百合子さんの筆で書かれたから、わたしもちゃんと男の子たちに出会えたのだ。
「やいポチ」で本を閉じなくて本当によかった。そういうことに気づかせてくれる百合子さんのすごさはいったいどういうものなんだろう。
固いバリヤーをすうっと通過して奥にある見えない本質にそっと触る光のようなものなんだろうか。


1か月に渡る旅の日記。ロシア、中央アジアを経て、レニングラードから北欧へ。
その間に見たもの、味わったもの、出会った人たちのことが、克明に記されている。文章で綴った家計簿のような精巧さで。
朝昼晩の食事のメニュー、土産物の値段などを読み飛ばすでもなく、ぼーっと辿っていると、突然に、ピュアな感性に触れて、はっと居住まいを正す。
たとえば、
●アルマ・アタの空港で、天山山脈を見ながら
>窓硝子に顔をぴったりつけて、さえぎる雲一つない大快晴の天空から、天山山脈を見つづける。瞬き一つしても惜しい。息を大きくしてもソン。頂きに真っ白な雲をのせて、ゆっくりと少しずつ回りながら天山山脈は動き展がってゆく。
タシケントで。(時計をその地の時間に合わせ合わせしながら、すでに旅の中盤)
>…急に大きな忘れ物があるのに気がついたのだった。
大きな忘れ物――東京においてきた「時間」。旅をしている間は死んでいるみたいだ。死んだふりをしているみたいだ。
トビリシグルジア)にて。
>いい天気。泣きたいばかりのいい天気。
存分に泣け、と天の方から声がすれば、私は眼の下に唾をつけ、ひッと嘘泣きするだろう。
レーニン廟で。
レーニンは黒い服を着て横たわっていた。(中略)正面を通り過ぎるとき、老人を敬って合掌瞑目した。すると、涙が眼の裏に湧いた。もしこれが本当の木乃伊ならば、レーニンが気の毒で。
●旅の最後に、コペンハーゲンで。噴水を取り巻くベンチに腰をおろし、往来する人の波を眺めながら。
>「旅行者ってすぐわかるね。さびしそうにみえるね。」


きりがない。
そうして、最後にもう一度『あとがき』を読む。
この旅を終えて、夫泰淳氏をはじめ、すでにこの世を去った人たちのことを百合子さんだからこその言葉で振り返っている。
最後の「私だけ、いつ、どこで途中下車したのだろう」でほろり。
いつのまに、わたしは涙もろくなってしまったのだろう、と思いながら、豪快にして繊細な旅日記を三冊の『富士日記』と並べて本棚に収める。