『部屋(上下)』 エマ・ドナヒュー

部屋 上・インサイド (講談社文庫)

部屋 上・インサイド (講談社文庫)

部屋 下・アウトサイド (講談社文庫)

部屋 下・アウトサイド (講談社文庫)


物語は、ジャックの5歳のお誕生日からはじまる。物語全部がジャックの語りで進行していく。
5歳の坊やの5歳らしいリアルに微笑んでしまう。
このリアルさは、大人から見たリアルではなくて、自分が5歳だったら(もうすっかり忘れているけれど)きっとこんな風に感じた、こんなふうに思った、と実感できるようなリアルさなのだ。
世界がぐんと大きくなったようで、くすぐったいような気がして、くすくす笑ってしまう。
彼は、母親の愛情を一心に受け、大切にのびのびと育てられた。


しかし・・・。
だんだん状況がわかってくる。
彼が自分の見た聞いたことをそのまま伝えてくれるその様子から、周りの人たちのことも、何が起こっているのかも、ぼんやりと見えてくるのだ。やがて、はっきりと。
彼の「あたりまえ」彼の「世界」は、恐ろしくショッキングな「特別」であった。
そして、彼から自然、彼の愛する母に思いを馳せずにいられなくなってくるのだ。
もはや、ジャックの無邪気な語りは、この状況の不気味さを際立たせる手立てでしかなくなる。



しかし、これは、本当に特殊な物語なのだろうか。作者は、このショッキングな物語を『特別な物語』には書かなかった。
物語を読めば読むほど、特別、という感じがしなくなってくる。
「いろいろな人がいろいろな状況で閉じ込められている」との「ママ」の言葉が印象的。
異様な状況ではあるけれど、それでも、自分を振り返ってみれば、自分自身がジャックであった時代があったような気がしてくる。
物心つくまでは、どんな環境で育っても、それをあたりまえのことと受け入れて、あたりまえに順応して暮らしていくしかない。
それが客観的に見てどうだろうとか、そんなこと知るわけないし判断できるわけない。
どこにでも「部屋」がある。「部屋」の外がある。「部屋」の外はまた「部屋」で、さらにその外があるような・・・まるで入れ子みたいに。
いいえ、「部屋」はむしろ自分自身の「皮」のようだ。一枚一枚脱皮して、脱いだ皮は、こんなに小さくて窮屈で、もはや戻ることはできないのだ。
人は、意識しないまま何度も脱皮を繰り返して生きているのかもしれない。


マーガレット・ワイズ・ブラウンの絵本『おやすみなさい おつきさま』では、ウサギの坊やがベッドの上から、彼のまわりのものひとつひとつに「おやすみ」を告げていく。
それは、自分が眠りにつくための「おやすみなさい」だった。
でも今、ジャックは、彼の周囲を眠らせるために、彼の周囲のものたちひとつひとつに(彼が脱ぎ捨てた彼の「皮」に)「おやすみなさい」を、告げる。それらを眠らせ、自分が目覚めるために。
「ママはね、ジャックをこの《へや》の中に産み出した。そうして、今夜、ママはジャックをこの《へや》から外へ産みだそうとしてるの」
という言葉があった。
けれども、「《へや》の外」のさらに外へ、ジャックは出ていかなければならない。
《へや》に産み出される時も、《へや》の外に産み出される時も苦しい。
今度もまた・・・苦痛が待っているのだろう。それでも、今度は、彼が自分の力で生まれようとしている。そういう「おやすみ」だ。


原題「ROOM」は部屋だが、同時に「余地」の意味もある。ほかにチャンスの意味もあるのだと知った。
どこまでも八方塞がりに思えても、息をつく「余地」があるなら、その「余地」は、きっとチャンスに繋がる。そう思いたい。
そういう「ROOM」に暮らしている。