『盆栽/木々の私生活』 アレハンドロ・サンブラ

盆栽/木々の私生活 (EXLIBRIS)

盆栽/木々の私生活 (EXLIBRIS)


不思議な物語だった。
嘘と省略と真実を、無造作に並べてある。筋も時の流れもおかまいなし。
この物語の形を盆栽に例えているのだろうか。だとしたら、個々の文章から読み取れないものが、全体を眺めれば見えてくる、ということだろうか。


『盆栽』『木々の私生活』
二つの物語は、登場人物も違う、それぞれの人物の置かれた立場も違う。全く別の物語でありながら、でも、形を変えて語られる一つの物語を読んだような気がした。
最初に、『盆栽』を読んだときに、あまりにとらえどころがなくて、正直、困惑した。
その後、二作目の『木々の私生活』を読み、『盆栽』によく似ているものの、ずっと纏まっているように感じた。それとも物語の形態に慣れたのだろうか。
(よかった、読み続けられる。途中で挫折するかと思ったけれど。)
いつのまにか、この物語の詩的な静けさをしみじみ好きだ、と感じていた。冷めているような乾いているような文体もいいな、と思った。
静かな寂しさに身を委ねる。私も今寂しいんだ、と気がついた。(不快ではなかった。)
そうして、やっと一作目の『盆栽』に感じた散漫さが、実は散漫ではないのかもしれない、と感じられた。
欠けたものも放置されたものも、そのままでいいんだ。
二作目『木々の私生活』から大切な(必要な、ではない)かけらが集まって結晶を作ったようなのが『盆栽』。
浮かび上がってくるその結晶の形が、二作目を読んで、やっと見えてきたような気がした。


過去、主人公(『盆栽』のフリオ、『木々の私生活』のフリアン)には、愛し合った恋人がいて、愛の日々があったのだけれど、それは思い出の中の物語に過ぎない。
当の恋人は最初から最後まで不在のままだ。
だから、読みながらときどき本当に愛し合った日々があったかどうかわからなくなる。幻のようだ。これは、最初からずっと失われた物語だった?
物語全体が白い霧に覆われているように感じる。霧のなかにときどき、現れる島々を辿っているような気もする。

>フリアンは消されてなくなる染みだ。
ヴェロニカは消されても残る染みだ。(『木々の私生活』より)
人と人とが関わった記憶を「染み」という、その表現の無味乾燥さが悲しい。人のよるべなさがひしひしと伝わってくる。その人の目が見ている世界がとても殺伐としているようで、堪らなくなる。
「彼ら」はほんとうに染みにすぎないのか。
人と関わることが(愛することも、家族を作ることも)染みにすぎないのだろうか。
でも、消されてなくなるにしろ、残るにしろ、そして、染みにすぎないにしろ、確かにその染みはあったことはあったはずではないか。
その染みは、さっさと洗い落としてしまうには、あまりに愛おしいではないか。
いずれ洗い落とすしかないのだけれど、けれど・・・その「けれど」の場所があるのだ。
そうだ、乾いた声で「染み」のことを語っていても、それだけですむわけがないんだ、やっぱりね。
その先に見えるのはただ乳白色の霧。ほうっておいたら、この染みも、そして自分自身も、霧の中に消えてしまうかもしれない。
でも、もう少しだけ、この場所に立っていよう、染みを染みのまま、抱きしめていよう。そう思う。