マーチ家の父 ―もうひとつの若草物語―

マーチ家の父 もうひとつの若草物語

マーチ家の父 もうひとつの若草物語


マーチ氏が戦場から家族に手紙を書くときに「人間の残酷さについて書くことで娘の耳を汚すべきではない」と、自然界の描写に多くペンを用いたように、
また、夫の留守を守るマーチ夫人が、娘たちの前で内心の懸念を隠し、「揺るぎない、確信に満ちた顔だけを見せ、絶望を(娘たちに)分けあたえてはならない」と考えたように、
オールコットは、少女たちのために、『若草物語』を一つの理想卿・楽園に作り上げたのだろう。人間は残酷だし、不安や絶望が満ち満ちた世界だから。
「理想郷」は、目の前には存在しない。でも、どこかにあるかもしれない、たぶん、希望を形にしたもの。
若草物語』の「もうひとつの物語」を読むことは、この理想卿を壊す(別物に変える、別物を付加する)ことを覚悟して読まなければならないのでしょう。
なぜ壊す必要があったのか、そして、どのような壊し方をしてくれたのか…覚悟して見極めたいと思いました。


この物語は、『若草物語』では不在だった父マーチ氏が、そのとき、どこでどうしていたか、一つの仮定を提示します。
奴隷解放論者であり、ずっと妻と共に奴隷の逃亡を助ける地下活動に関わってきたマーチ氏。
平等で、強い信念を持ち、高い理想のうちに生きていたマーチ氏。
彼は、良き家庭を築こうとしていた。その中心に愛する妻を据えて。
彼が夢みたのはそれこそ誰もが知っている『若草物語』だったのだろう。
でも、生きた家族の本当の姿、本当の気持ちは見えていたのだろうか。
マーチ夫人はどうだったのか。
お互いに、別々の、実体のない理想を愛していたのではないか。


マーチ氏は北軍の従軍牧師として、戦争に行く。
わたしは、彼の目を通して、人間が人間に向けた憎しみの凄まじさを目の当たりにする。
ささやかな理想(形のないもの、目に見えないもの)さえも片手で握りつぶしてしまえるような巨大な憎しみ(戦争、差別)を、作者は描き出した。
ナチスをことさらに糾弾する必要がどこにあるか。ほら、ここにもそっくりの迫害があるじゃないか。
戦争と差別とが、人を殺すだけではなくて、生きた人間も生きたまますっかり違うものに変えてしまうものだ、ということを思い知る。
戦争はそういうものなのだろう。


最初にぼんやり見えていたのは、黒人たち、白人たち、だった。それから、彼らのおかれたいくつもの立場や事情の違いが見えてくる。
そして、徐々に個々の登場人物が、唯一無二の一人ひとりになり、忘れ難い人となる。
最後に、「小さなご婦人たち」と重なるように現れる、別の「ご婦人たち」の幻に、ああ、これが『もうひとつの若草物語』であったか、と思う。それはなんて美しくてなんて残酷な『若草物語』だろう。


この物語は美しい理想郷を壊した。
いたずらに壊したわけではない。この物語が、マーチ氏の逍遥が、その理由であった。
砕け散るべくして砕け散った理想郷であったとしても、その跡に何を構築するのだろうか。できるのだろうか。
ここから始まる物語があるのです。