アメリカにいる、きみ

アメリカにいる、きみ (Modern&Classic)

アメリカにいる、きみ (Modern&Classic)


ナイジェリアに暮らす人々、海外に住みながらナイジェリアを故郷にする人々、
どちらにしても、ナイジェリア人(とりわけて、作者と同じイボ民族の人)を主人公にした短編集です。
ナイジェリアという国、すごく恥ずかしいけれど、地図上のどこにあるのかさえわかりませんでした。
まして、ビアフラ戦争なんて言葉は。まして、今もなお、抱えている(民族・宗教間の)問題については。
そんな状態で、やせておなかがふくれあがった子どもの写真を見て、痛ましい、と思ったとしても、いや、思ったことがあったということさえも恥ずかしくなるのだった。
なんという傲慢だろうか・・・


都会も田舎も、何がまかり通るかわからない。異なる民族同士がいがみあい、異なる宗教同士がいがみあう。
そして、ビアフラ戦争から30年たつ今もなお、その爪痕は町のあらゆるところに、そして人々の心にも暮らしにもくっきりと刻まれ消えることはない。
ナイジェリアという国の深刻な事情は、どの物語を読んでも痛いほどに伝わる。


目の前で子どもや愛する人を無残に惨殺され、不潔な環境の中で飢えと病気で死んでいく子や兄弟を黙って見ているしかなくて・・・
財産も人も失い、信じられるものを何もかも失い、それでも生きていく。
ナイジェリア人という人たちは、そういう過去と現在とを共有する人たちなのだ。


10篇の短編を読み、10人の主人公たちに出会ったけれど、
きっと彼らは、(男も女も、暮らしかたも経歴も、住んでいる場所もみんなちがうけれど)たった一人なのではないか、と思う。
(国内に住もうが、国外に住もうが)否応なしに、異文化の助け(?)を受けなければならなくなった人々。
そこに生まれる軋轢にとまどい、苦しみ、傷つき、打ちのめされる。
しかし、打ちのめされてもなお、その姿はしなやかに美しいのだ。
そう思うのは、彼らの心情の、あまりに微妙な変化ともいえないくらいの変化を大切に拾っていく繊細な文章のせいかもしれない。
わたしは、彼らの誇り高さ、目線の高さ、その瞳の曇りなさに、言葉を失う。
あえて、差しだされた「チャンス」を厳かに退ける(やむなく受け取るしかなくても、心は永遠にそれを拒否する)彼ら。
拒否されていることさえも、差し出した人間は気がつかないかもしれない。


こういう国なのだ、都市の様子はこんなふうだ、田舎の人々の暮らしはこんなふうだ、と目を覆うような惨状を描写しながら、
それでも、主人公たちはこの国を懐かしむ。彼らは、いったい何を見ているのか。
外国人には決して見ることができない、この国で生まれ育った彼らの文化、彼らの心、彼らの風景が、ここにある。
奪われ、打たれた彼らは、泣きながら、あるいは歯を食いしばりながら、誇りをもって顔をあげる。
アメリカにいる、きみ」「スカーフ」「ママ・ンクウの神さま」が特に好きです。
彼らが見ているのは、富める国の「チャンス」ではない。彼らの根である故郷なのだ。


遠い(どこにあるかもわからなかった)国の、宗教も習慣も違う人々の物語です。
だけど、決して遠い物語ではなかった。
彼らがよりどころとするのは(民族や宗教も超えて)同じ「根」を持つ人々なのだ、と感じるから。
根の部分への共感、共感といっていいのか、それに近いものが広がっていく。