海にはワニがいる

海にはワニがいる

海にはワニがいる


10歳の息子を隣国に連れ出して、街のなかに着のみ着のまま置き去りにする母親がいる。
と、聞いたら、尋常な気持ちではいられなくなる。
だけど、この酷い話が、母が子に、生きよ、と祈りをこめて、命を託す最高最上の方法であったのだ。
まず、自分の気楽さとの隔世感に呆然となってしまう。


タリバンの迫害を逃れ、アフガニスタンの10歳の少年エナヤットは、その後約5年の間に、
アフガニスタンからパキスタンへ、パキスタンからイランへ、イランからトルコへ、トルコからギリシアへ、ギリシアからイタリアへ、
無事に暮らせる場所を求めて、5000キロの旅をすることになる。
しかも、これは実話だという。20歳を過ぎたエヤナット本人が作者に語った物語である。


過酷な旅、命がけの旅、と、その程度の語彙力しかないのか、と自分が情けなくなるのだが…
命を落とすすれすれの危険をくぐりぬけ、少年とは思えぬほどの忍耐力で耐え…
ただ、よく生きていた、よく生き抜いた、と思う。


物語は、あっさりと進む。
あっさりと、と言っても、彼の体験を箇条書きにしただけでも相当濃いドラマになるはずだ。
壮大な冒険物語を読んでいるように錯覚してしまうほどだけれど、実話なのだ、実際の体験なのだ。
言葉がない…
ことに、海を見たこともない四人の子どもたちが、貧弱なゴムボートに四本のオールとともに、
国境を超えるために夜の海を渡る場面は、もしフィクションであったら、手に汗握る大冒険、この本のハイライトかもしれない。
だけど…見ていられなかった。
少年が、使い走りの仕事をしながら、わざと遠まわりして、学校の校庭で遊ぶ子どもたちの声を聞きに行くエピソードも、せつない。
必要最小限の言葉だけで綴られた描写が、ただ辛い。


そう、あっさりとした物語、それはエヤナットがそのように語ったからだ。
作者とエヤナットの会話が、ところどころ、物語に挟まれる。
例えば、作者は、エヤナットに「もう少し、そのおばあさんのことを話してくれよ。」と尋ねる。
エヤナットは答える。

「僕は出来事そのものにしか関心がないんだ。あのおばあさんが僕の物語のなかで重要なのは、その行為故のことであって、名前とか、家がどんなふうだったとかはどうでもいいことなんだ。言ってみれば、彼女自体は誰でもいいんだ。…同じ行動をとるひとなら誰でもいいってことさ」
…エヤナットの物語に出てきた人々は、沢山の同族達を代表する一人にすぎないのかもしれない、と思う。
そして、エヤナット自身もまた、たくさんのエヤナットを代表する一人にすぎない、ということなのだろう。
…世界中にたくさんのエヤナットがいるのだ、今もいる、ということなのだ。
しかも、彼がくぐりぬけてきた危険な多くの場面の中で、生きている。
(途上で命を落とすものも沢山いる、そこで恐怖と闘いながら暮らす者もたくさんいる、殺人を強制される兵士になった者もいるはず)
弱いものを踏みつけにする権力は狂っている。それを黙って見逃し続けることも狂っているのだと思う。
子どもが「宿題きらい学校きらい」とごねることのできる環境を、贅沢、というのではなくて、それがやっぱり当たり前なのだ、と思いたい。
その「当たり前」を力いっぱい守ること、子どもたちに「当たり前」を保障してやること、これもまた「当たり前」の大人の仕事なのだと思う。
どうか、たくさんのエヤナットたちが生きて、生き抜いて、自分の物語を語りだすことができるように…