懐手して宇宙見物

懐手して宇宙見物 (大人の本棚)

懐手して宇宙見物 (大人の本棚)


「好きなもの イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物」と歌った寺田寅彦
一杯のコーヒーと宇宙とを同じ「好き」の上にさらり並べる自由さに、体が軽くなり、視界も広がっていく感じがする。
寺田寅彦のエッセイのなかから、「あえて科学より文学豊かな作品を多く選ぶことにした」と編者池内了さんは解説で書かれる。
けれども、文学・科学両方を極めた人の文章は、「文学的」といっても、何か一味ちがうのである。
一言でいえば…ああ、そうだ「好きなもの イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物」の感じ。


夏目漱石の思い出について書かれたものが興味深い。
漱石の門下生であったこと、『柿の種』を読んだときに初めて知りましたが、
若い頃には漱石の書生になることを希望していたそうで、そこまで心酔していたのか、と驚く。
(文中漱石には必ず「先生」という敬称をつけるのに、子規は呼びつけだ^^ なんだかおかしくて)
吾輩は猫である』の寒月くんのモデルはどうやら寺田寅彦だったらしい…これって有名な話なのでしょうか。
びっくりでした。
遥か昔読んだきり、ほとんど忘れている『吾輩は猫である』が今とても読みたくなった。


収められたたくさんの随筆のうち、自然を、ことに草木について語ったものがおもしろい。
そして、ところどころに顔を出す「なぜだろう」の視点に、さらには、その性質を公は応用できないか、との見解に、
はっとして、畏れ入って、やっぱり科学の人なんだ、と思う。
たとえば、烏瓜の花について語る美しい文章がある。
比喩も美しい。詩のようだ、と思う。
「妖精のにぎりこぶし」と譬えられた壷んだ花が夕べに一斉に開く驚き。
でも、ただ驚きに終わらないのだ。なぜ、この時間なのか、と考える。(だってそうなんだもん、と放っておかない)
観察する、研究する、考察する。花のつぼみをそっと開いてみたりもする。
あげくに「空の光の照明度がある限界値に達すると…」などと、こちらはお手上げにならざるを得ないことを言う。
美しい文章を読んでいるなあ、なんて安心してはいられないのだ。


浜辺の村で盆踊りを見た話が絵のように心に残りました。
盆踊りそのものが「西洋人に見られると恥ずかしい野蛮の慣習」と公然とはできなかった時代があったらしい。
そのころ、都会を遠く離れたさびしい村里で、「何百年前の祖先から土の底まで根を下ろした年中行事が密やかに行われていた」という。
「なんの罪もない日本民族の魂が警察の目を避けて過去の亡霊のように踊っていたのである」という。
暗がりのなかにぼおっと明るく輝く光が見えたような気がした。
幻燈に映し出された影絵のようで、静かで少し寂しい童話のようでもある、印象的な文章でした。


「団栗」のせつなさは忘れない。
「腹の立つ元旦」みたいに、そこはかとないおかしさを感じるものもある。
そして、あちこちの文中に顔を出す寺田家の小さな子どものあどけない言葉。
ほら、こんなにも鋭い感性をまっすぐに口にする子どもの言葉。
わが子を見守るお父さんのまなざしが温かく心地よかった。