ルーカス・クラナッハの飼い主は旅行が好き


旅はいいなと思っても、なかなか重たい腰はあがらない。
旅行記は、自宅にくつろいだまま、地理的にも空間的にも時間的にも、日常と切り離された感じになれるのがいいな。
人の旅に同行した気持ちになり、その人の目で物を見られるのも新鮮な感じ。
起きることも食べることも歯を磨くことだって、どきどき、わくわくする冒険に変わる。


山本容子さんは、あちこちの国や町に、軽やかに出かけていきます。
何カ国くらい・・・という話ではなく、街の印象や名所めぐりの顛末などについての話でもなくて、
旅先のホテルでの窓だとかテレビだとか、エレベーター、グラスの話など・・・
どこのホテルにもたいていはありそうな備え付けの小物たちの話です。


どこにでもあるものたちって、こんなに個性的でこんなに雄弁だったの。
どこにでもあるもたちは、その国その町そのホテルの個性を反映して、いろいろな情報を語る語る。
さらには、その物に目をとめ手にとった旅行者の感性や考え方までも写し出してみせてくれる。


たとえば、グラス。洗面所の鏡のついた棚に入ったグラスで水を飲んだそうです。
そのグラス、きっと美しい佇まいだったんだろうなあ。
さりげなく洗面所の棚におさまっているけれど、自分の役割を心得て、グラスとしてのプロ意識に胸を張っていたんだろうなあ。
そんな感じを想像して、いいなあ、と思う。
いいなあ、と思のは、山本容子さんの目で、こういうものたちを見まわしているからです。
言われなければ、同じグラスを目にしても、こんなふうに感じることはなかったかもしれない。


それから、山本容子さんは旅先で写真を撮るように音を録る、という話を読む。
雑踏の音、ホテルの食堂の音、細切れの会話・・・

>現像されたスナップ写真を見ながら、旅の思い出を語り合うのも楽しいが、録音してきた音を聞きながら目を閉じていると、まるでその場所に舞い戻ったような気持ちになって、些細な出来事まで思い出すから不思議である。
映像なしの音だけ、というのがきっといいんだろうなあ。真似してみたくなる。
そして、旅から帰ったら、大好きな音楽を聴くように、旅の思い出の雑音を部屋いっぱいに満たすのだ。素敵だろうな。


だけど、これらのこまごまとした品々は、ほんとうにどんな相手に対してもこれほど雄弁なのだろうか。
山本容子さんだから?
語らせ上手な聞き手(旅行者)にだけ、語るのじゃないかな。
そういう感性を持った人だけが聞きとることができるのじゃないかな。
タオル、エレベーター、電話、バスローブ・・・
それから、ルーム・サービスに両替、鍵の話も・・・
聞かせてもらえてうれしかった。


目次がまたすてき。目次って本の地図のようなものだ、と思うけれど、この本の目次は地図の要をあまりなさない。
迷子になるのを楽しむ人のための地図のようだ。
順番なんかどうでもいい。
旅のお土産話だもの、お行儀よく最初から読むのもよいけど、あっちに飛び、こっちに飛び、そうやって勝手気ままに読むのもいい。