ヴァレンタインズ

ヴァレンタインズ (エクス・リブリス)

ヴァレンタインズ (エクス・リブリス)


12の月ごとの12組の恋人たち(ヴァレンタインズ)の物語集です。
訳者あとがきによれば、
作者オラフ・オラフソンは、アイスランド生まれのアメリカ育ち。
十代の頃、父を亡くして母とともにアイスランドに戻りますが、大学卒業後はアメリカに渡り、以後、ずっとアメリカで暮らしているそうです。
この短編集の主な主人公たちもほとんどが、アイスランドに自分の根っこを持ちながらアメリカに暮らしている人たちです。
アメリカの社会になじみ、アメリカ的に暮らしながらも、
アイスランド的な価値観や伝統を懐かしんでいます。
彼らは、作者自身の分身でしょうか。
主人公たちの考え方に、わたしは共感することが多かった。
たとえば、友人同士でも、夫婦の間でも、自分の気持ちをはっきりと伝え合うことをあまりしないこと。
言葉にするよりも、相手の気持ちを察しようとすること。察してほしいと願うこと。
言わなくてもわかっているつもりでいたし、それで普通にうまくやってきたし、これからもきっとうまくいくと思っています。
これは、アイスランドの人たちがそうなのか、たまたまこの本の主人公たち(の何人か)がそうなのか、わからないけれど。
アイスランド、どこにあるかもちゃんと把握していないくらい、馴染みがありませんでした。
どんな人たちがどんな暮らしかたをしているのか、知らなかったなあ。
人の名まえや、家族の絆を大切にすることなど、初めて知りました。


「恋人たち(ヴァレンタインズ)」とはいうけれど、
恋が終わるとき、結婚が壊れるとき・・・そういう瞬間の物語が多かった。
表面だけ見たら、このまま壊れるのはあまりに残念で(だって、相手への思いは残っているんだもの)
どうにかならないのかなあ、と思ったり。


今、思いは残っている、と書いたけど、そこ。その思い、なのだ。思いの中身なのだ。
思いってなんなのだろう。
目に見えないこれが魔物のように手ごわい、つかめない。
それぞれが、それぞれのことをまったく違った意味で大切に思っていて、
ある日、その思い方や思いの方向が双方違っていること、自分には相手のそれを何としても受け入れられないことを知る。
そのことを知らずに今日まできたことが、そう、相手ではなくて自分自身にがまんできないのかもしれない。
でも、相手にしてみれば、いきなりそんなこと言われても・・・ねえ。


壊れる前の散文的な日常は、静かに、とてもデリケートに描写されていて、どこか懐かしいような気がする。
それが壊れる瞬間は、一息で描かれます。張り詰めたものが破裂するように。
あまりに一気なので音もなくて、声も出せず、ただ息をつめるようにして見ているしかない。
傍目には、「なぜ、そんなことで?」と思うようなささいなことに見えるのに、もう取り返しようがないことは、当の二人だけが知っている。
それでも、やっぱり些細なことでしょ?と無理やりにでもやり直せないかなあ、と無茶なことを未だに思っています。
だって、互いのことを(すれ違っていようとなんだろうと)かけがえがなく思っていることは変わりないんだもの。
まやかしだろうがなんだろうが、嘗て二人の間にあったはずの小さなぬくもりや、極めて散文的な日常が愛おしくてたまらなくなる。


そして、矛盾するみたいだけど、こうなって、もう取り返しがつかなくなって・・・実はホッとしてもいる。
こっちの気持ちのほうが近いかな。
あれらのぬくもりがほんとはぬくもりではなくて、ぬくもりがあるつもりになるために、ものすごい緊張感が必要だったことを知っているからです。
そんなのを次々に読んでいるうちに、よくわかりあっているつもりでいた人間同士の心が判らなくなってきます。
怖ろしくなってきます。
だけど静かです。ほんとはこのあとどうなるのか、見当もつかないのだけれど、
とりあえず、この瞬間は静かにしていたい。読者として、主人公たちのその静けさを今だけ守っていてあげたくなる。そんな読後感なのです。
わたしには、12人の主人公たち(または、その相手)が、とても近しい人のように思えました。