鯨人

鯨人 (集英社新書)

鯨人 (集英社新書)

海人―THE LAST WHALE HUNTERS

海人―THE LAST WHALE HUNTERS


『鯨人』
旅の荒唐無稽な物語のひとつとして、著者(カメラマン)の石川梵さんは、こんな話を聞いたという。
インドネシアのある地方の捕鯨だというが、
「手製の帆掛け舟で巨大なマッコウクジラを追い回し、銛一本で跳びかかり、鯨を突く漁師がいるという」
それが始まりだった。
どこか遠い国の、ほんとうにあるのかどうかもわからない民族の文化に思いを馳せるというのは、ほとんど夢物語。
だけど実際に追っていく・・・夢が現実になる・・・夢をかなえる・・・
その柔軟さ、行動力の大きさに、はっとして、ぐんと体が広い世界に押し出されるような思いでした。


インドネシアのレンバタ島のラマレラは、銛一本で鯨を仕留める伝統捕鯨で知られているそうです。
ただし、捕れたとしても年間十頭。しかも捕れるときには三、四頭まとめて、ということであるから、
現地にぽっと出かけて行っても、実際の鯨漁を見るチャンスはものすごく低いそうです。
梵さんは鯨漁の写真をとるために四年の歳月をかけます。それからさらに三年。


素晴らしい記録でした。
この村で、著者の出会う人々、付き合う人々の顔が、見えないのに思い浮かんでくる。精悍で忍耐強い人の顔が。
そしてどの顔も懐かしいような気がしてくる。
会ったことなんてないのに、会ったことのある年よりたちの顔に思えてくる。


最初、『鯨人』だけを読んでいたのですが、読んでいるうちにどうしても写真が見たくて見たくて・・・
そして、借りてきたのが、写真集『海人』
ああ、文章で見たままの、それよりもずっと広い空と海が、ここにあった。
日に焼けた、長い経験と叡智に輝く、男たちの顔。思ったとおりの。
眩しく逞しい人々の群像。
あとは、文章と写真とを交互に見比べながら読みました。
写真と文章と、どちらがより雄弁に訴えているのだろう、と考えながら。


四年をかけて、念願の写真を撮ることができた梵さんの写真集が『海人』
四年通い詰めたのだもの、鯨漁だけの写真じゃなくてもいいのでは?
たとえば、『鯨人』に語られていたように、村の人たちの生活やなんかを写しても?
いやいや、そうではない。そうじゃありません。
あえて鯨漁だけの写真集。余計なものを入れない。
このこだわりが、一事にかけたプロの仕事。と思います。
四年はこの瞬間に集約されていく。潔いまでの凄みになって。凄みになって・・・


しかし、梵さんは、目標を達成して日本に帰ってから、物足りなさを感じ始めます。自分の写真に欠けているものがあると。
それを撮るために三年後に再び、島へ向かいます。
欠けていたものって何だったのか。
・・・圧倒されました。その思い。そして、それをカメラに収めた瞬間の回想に。
神々しい・・・
人も鯨も・・・そしてそれを見せてくれた梵さんも。


生きることは、命を奪うことです。それは闘いでした。
命がけの闘いでした。
食うか食われるかの一騎打ちでした。
そこにあるのは相手に対する激しい怒り、けれども同時に、いや、怒り以上に(ずーーと以上に)相手への尊敬がある。
そして、その尊敬・敬意が人間だけの勝手な思い込みではないのだ、ということを、
間違いなく双方の思いなのだ、ということを、
梵さんの写真と文章とは伝えている。
神聖でさえある・・・
この場所に「動物愛護」などという言葉は消える。その傲慢にも相手を見下すような言葉は引っ込むしかない。
愛護をとっくに越えて、はるかに尊い信頼と尊敬と、たぶん友情とがここに存在している。


この村に西欧の価値観が入ってくることを著者は憂えています。
ごり押しの援助、近代化が結局ラマレラの社会をかき乱すだけに終わることを。
あまりに大きくて難しくて、ひとことで切り捨てることはできないけれど、
西欧文化の横暴さ、自信過剰に嫌気がさします。
自分と同じにして「やる」、というのはなんなのか。それは自分たちが思っているほどいいものなのか。
相手の持っているものもおなじくらいいいものだとは思わないのか。
もう後戻りはできないかもしれない。
それではどうしたらいいのだろう・・・
日本は、そこに住むものはどうだろう。