アンのゆりかご

アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)

アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)


この本の感想を書くに、こういう書き出しは失礼かなとも思うのですが、
一番最初に巻末の梨木香歩さんの解説を読んだのです。その解説に心動かされ、それを心において本文を読みました。
だから、最初に「解説」の感想から書かせてくださいね。
梨木香歩さんの文章の末尾の日付は2011年7月14日、そして、タイトルは『「曲がり角のさきにあるもの」を信じる』。
これは村岡花子さん翻訳の『赤毛のアン』のなかの言葉、

「いま曲がり角にきたのよ。曲がり角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの」
この言葉とともに、本文中から引用されていたのが、東洋英和女学校卒業式でのミス・ブラックモアの言葉でした。
「・・・最上のものは過去にあるのではなく、将来にあります。旅路の最後まで希望と理想を持ち続けて、進んでいく者でありますように」
どちらも、自分の人生に対する絶対的な信頼と希望、そして、生きることに対して誠実であれ、との祈りのように思えました。
暗く混迷し、次から次に追い打ちをかけるような辛いニュースが続きます。まるで闇の中で暮らしているような気がする春からずっと。
そんな寒い(ほんとうはうだるような暑さであったが)7月の日に、梨木さんはこの二つの言葉を引用されました。
私は、こういう「今」というときに、あえてこの先にあるものを「善」と言い切る、梨木さんのことばに打たれたのでした。
そして、本文中で、引用のことばにどこでどのように出会えるのかのを楽しみに、わくわくしながらこの本を読み始めたのです。


前置きが長くなりました。
梨木香歩さんが引用された部分はすぐに文中から見つかります。
なぜなら、これらの言葉は、村岡花子さんの生き方そのもののように思われるからです。
貧しくささやかな出自。給費生として、世界がガラリとかわる女学校寄宿舎の生活、友情、夢。自立、恋、そして、波のように寄せる苦しみ、戦争。
・・・その人生はモンゴメリのアンそのもののように感じました。
戦火の中で、東京で、空襲に明け暮れる日々のなかで、
まさに命がけで『赤毛のアン』を翻訳しつづけたこと、いつか必ずこの本を日本で出版する、と信じ続けることができたのは、
アンが「まがりかどの先にあるもの」を信じたように、村岡花子さんの中でミス・ブラックモアの言葉が生きていたからかもしれません。
それは、簡単なことではない、どころか、それこそ気が遠くなるほど大変なことだったはずです。


佳きものを信じること、信じて、その方向を見つめて歩き続けることって、ものすごく大きな意志の力とエネルギーが必要なのではないでしょうか。
小柄な体、こぼれるような笑顔のうちに、そういう強いものがあることに打たれるのです。
それはどこからくるのでしょう。


ひとつには村岡花子さんが愛に満ちた人だったからではないでしょうか。
ご自身もさまざまな場所でさまざまな形で多くの人たちを深く愛し、
そして、出会う人々に、深く愛されてきた、ということは大きいと思います。


それから、村岡花子さんは、初めて出版したご自身の本『爐邉』の前書きのなかで

「・・・『平凡』と言ふ事は強ち恥ではないと思ひます。寧ろ尊いものだとも考へます。」
と書かれています。そして、
「洗練された『平凡』。それは直ちに非凡に通ずるものであると思って居りますから」
洗練された平凡・・・。
村岡花子さんの人生は、この本を読めば、決して平凡などではなかったのだと思うのですが、それでも、たぶん、
たぶん、村岡さんは「洗練された平凡」を心に置いて生活されたのだろう、と想像しています。
そこから得た「まがりかどの先」なのではないかと。


また、心に残っているのは戦時ちゅうの女性運動についてです。
女性参政権を求める運動が、戦時中、軍事政策に積極的に協力する方向に舵をとったことについて。
著者はこれを現実的な路線と書いています。
「理想とはかけ離れた選択だったが、参政権を勝ち取らなければ、平和を求めようにも女性の意見は政治決定に生かされない」と。
本当は、どうしてもしっくりこない。
ただ、このような決断をしなければならなかったという事実に、この時代に生きた人びとの苦しみを思います。
形だけを見て単純に感情的に批判しがちなわたしにブレーキをかけてくれる言葉ではありました。
並べて引用されていた田辺聖子さんの『ゆめはるか吉屋信子』の一節とともに心にとめておこうと思います。


平凡(とても洗練されたとはいえない平凡中の平凡)に生きてきたわたしには、今この国のこの地に生きるということだけで、
すでに思いきり非凡なのですが、
そのなかで、できるかぎり洗練された平凡をめざしたいものだ、と思います。
この先に何があるかわからない曲がり角の先を「いちばんよいもの」と信じて、そして「いちばんよいもの」にするため最大限力を尽くせますように。
自分のいのちに誠実でいられますように。