盆まねき

盆まねき

盆まねき


小学三年生のなっちゃんは、家族といっしょに、お盆を、笛吹山のおじいちゃんの家で過ごします。
大家族のおじいちゃんの家、集まってくる親戚、たくさんのいとこたち。
出入りの激しい、いつもと様相の違う家。
いったいいつのお話? と思うくらいに、その期間だけは時間がとまって感じる日本のお盆。
ああ、お盆っていつもいつも、こんな感じだ。
少しずつ簡略化されたり、顔ぶれが変わってきたりするけど、その空気は変わらない。


忙しそうな大人たちと、異年齢のいとこたちに揉まれる数日間は、きっと懐かしい夏の思い出になる。
だって、読んでいるだけで、すごく懐かしいもの。


わたしも、以前は、久々に会ういとこたちと過ごすお盆が楽しみな子どもだった。
今は忙しいほうの大人になってしまったけれど、
いまに、なっちゃんにお話を聞かせるお年寄りたちのような、少しだけ暇のあるおばあちゃんになれるか、なれないか(笑)



お盆のあいだ、とっかえひっかえ、違う場面で、なっちゃんに、お話を聞かせてくれるのはお年寄りたちでした。
ヒデじいちゃん、フミおばちゃん、大ばあちゃん。
「うそとホラはすこしちがう。
 人をだますのが、うそ。
 人をたのしますのが、ホラ。
 ほんとでもいい。ほんとじゃなくてもいい。たのしかったら大成功。それがホラなんだよ」
という言葉で終わる、少しだけ不思議なお話を、わくわくと楽しみながら、なっちゃんといっしょに聞いていた。


だけど、やがて、だんだんわかってくる。
お盆ってそういう日だったんだなあ、と。
どのお話も、お盆につながっていました。
思えば、この世に生きている以上、命に限りがある以上、そして、その命が過去の命にも未来の命にもつながっていると思える以上、
わが身の周りの何もかもが、きっとお盆につながる。


二度死ぬ、という言葉の意味。
もう一度死なせたくない理由。
そして、二度目の死の深く静かな受容。
そういうものがみんな、今、生きてここにいる自分自身につながっていました。


そうして、物語のいちばん最後に「もうひとつの物語」がそっと現れました。
ああ・・・
そうだったのか。この物語は、そうだったのか。


遠い日のあの日、私が知らなくても、わたしのなかに流れる血は、あの日につながっています。
そして、今、わたしは直近のあの日のことも思っています。
忘れないこと。二度死なせないこと。
それでもいつかは必ずやってくる二度目の死を、死者・生者の両方が安らかに受け入れられるようになること。
そういうことを心にとめながら、見たこと聞いたこと体験したこと感じたこと考えたこと・・・
今、必死で生きて、必ず子どもたちに伝えていこう。
つながっている森羅万象の不思議のなかでこつこつと生きていくことも。