原爆の子(上下)


広島に原爆が投下されてから六年後に、この手記は編まれました。
被爆当時、したは四歳、上は中学三年生という子どもたち。
あの日のことを思いだすことも文字で表すことも、どんなに苦しかったことだろう。
それでも綴ってくれた。
綴り方のお手本ではないという。
文章が巧みかどうかということは問題ではなかった。


とても続けて読むことはできなかった。
それでも、読み始めた以上、ちゃんと最後まで、せめて一言一句ぬかさずに読み切ることだけが務めのような思いで読んだ。
いえ、読ませてもらいました。


地獄を這うようにして生き延び、つぎつぎに肉親を失う苦しみにも耐え、気がつけば、日本はいつのまにか平和な民主主義国家だという。
そして、浴びせられるのは「ピカドン傷」という残酷な言葉。
わたしなどに、どんなコメントのしかたがあるだろうか。


「もし他郷の人が広島の人に話しかけたら、彼らはむしろほがらかな笑顔を持って答えるであろう。しかし広島の人々の胸の中には永久に癒すことのできない苦悩がひそんでいるのだ。そしてその苦悩は年月と共にますます強く燃えさからずにはいない。」
序文のなかの編者のことばです。編者もまた被爆者なのでした。


この本の執筆者たちは、今も元気でいるのだろうか。
一番若い子なら69歳、一番年長の子ならもう80歳になられるのだ。どうか・・・せめて今が幸せでありますように。


むしろ足りない言葉、これ以上はきっと書けないのだろう、と思う幼い文章の行間から、あの日の光景が立ちあがってくる。
そして、そのイメージはすべて、わたしにとっては借り物の映像であることを改めて感じます。
わたしが知っているのは、テレビや写真集や、絵でしかない。
そして、これまで読んだり聞いたりしてきた体験談から、結んだイメージでしかない。
それでも、そのイメージに押しつぶされそうなほど胸がいっぱいになってしまう・・・


この本のなかにはいったい何十人の声が載っているのだろう。
そして、載せきれなかった子たちの声はあと何十人ぶんあるのだろう。
さらに、書けないまま、沈黙という声で参加した膨大な数の子どもたち・・・
実際に体験した子どもたちが、自分の言葉でそのことを書いてくれたことは、かけがえのない生の声でした。
ありがとう。書いてくれたこと、残してくれたこと。本当にありがとう。
大切に読ませてもらいました。


原爆の恐ろしさ、残酷さ、人々の忘れやすさ。
それとともに、もうひとつ忘れられないこと。
たぶん自分の命を救うことだけでもせいいっぱいだったはずのあの日あの時の地獄のなかで、
多くの人たちが、他の人たちとともに助かろうとしていたこと、他人を救おうとしていたことが、印象に残ります。
他人を踏みつけてでも助かりたいのが本能ではないかと思うだけに。
たくさんの手記のなかで、姿を変え、状況を少しずつ変えながらも、共通して出てくる当時の人々の姿でした。
全身焼けただれて母を求めて泣く子に、
「ここにいては危ないからいっしょに逃げよう、おかあさんは明日必ずさがしてやるから」と、自分も致命傷に近い傷を負った人。
見知らぬ子を背負って逃げる人。
力をふりしぼって、人を助けて、そのまま息絶えた人々・・・
私たちの時代は、こういう人たちに礎を築かれたのでした。
それなのに、豊かさと引き換えに何かを失くしてしまった、なんて言えるわけがあるだろうか。


「人間とは何か」と著者は序文で語ります。
「人間は歴史によって作られつつも、なお歴史を作っていく存在である」と。
この本を残してもらったことは、この本を託された、ということだと思うのです。
歴史を作っていく存在には、責任があるはず。