サリーの帰る家

サリーの帰る家サリーの帰る家
エリザベス・オハラ
もりうちすみこ 訳
さ・え・ら書房


>「雇われ人の市? それって、奴隷と同じじゃない! 『アンクルトムの小屋』そのものだわ! そんなもの、行かない。母さん、いやよ!」
サリーとケイティが14歳と11歳で、見知らぬ土地の見知らぬ人の家で、住み込みで働かなくてはならない、
という現実も、つらいものだけれど、
あまりに痛々しい、と思ったのは、それをそれまで覚悟していたわけではないから。
今まで続いてきて「普通」だと思っていたことの何もかもが寸断されてしまったから。
それなのに二人の友人たちは、今もこれからも、これまで通りの「こども」時代をまだ続けている、ということ。
怠け者(?)のサリーは、どこにでもいる普通の女の子、嘗てのわたしであり、わたしのまわりのどこにでもいる女の子です。
だからとても親近感を感じるし、いきなりの環境の変化がつらい。


本が好きな夢想家、仕事が嫌いで何かというとずるけてばかりいたサリーが、他所で働きながら成長していく物語です。
つらい状況の中でも、元気に気持ちの良い方向に目を向けることができることや、物語が、彼女の慰めになる。
そして、時に手ぬきすることもやはり必要なのです。
環境の変化に戸惑っているひまもなく、仕事から仕事へ、休む暇もなく働き続ける日々、妹への思いや、強いホームシック、
それにもまして、次々に大きな試練が遅いかかってくるわけですが、
そのなかで、感じるのは、読書によって培われた(と思われる)観察眼でしょうか。
サリーの成長のばねになったのは、楽天的で夢想的な性格と本が好きなことだろう、と思います。
ご主人や、奥さん、子どもたち、近所の人たち、人々の偏見、などに対する曇りのない批判、・・どれも、厳しくもあり、
それがためにそこから愛情も生まれてきます。
忙しい生活のなかでのこの余裕は、彼女の持って生まれた才能(?)なのかもしれません。
それは、いきなりの環境の変化の中で、自分だけの気持ちのよい風景の見える窓を持つことでもあります。
そして、この余裕は、自分自身を成長させるばねになります。
おおらかな夢想家であることと、本の世界を大切にすることによって、彼女の中に育まれ、表に出されるのを待っていたものがあったのだ、と思うと、
本好きな怠け者のわたしは、うれしくなったりします。


原題は「THE HIRING FAIR=雇われ人の市」ですが、邦題「サリーの帰る家」のほうが好きです。
「家」って、なんて象徴的なんでしょう。
「家」を自分の「家」と感じるのはどんなときなのかなあ、と考えました。
それは、その「家」にとって、自分がかけがえがない存在、と感じられるときかもしれない。
その「家」の主人になる、というのではなくて、この家が私の家である、と感じられること、
それは、そこには自分が必要なのだ、と感じ、そこもまたその人にいてもらわないと困る、と感じること。
家と人とが、ともに呼び合っているのを感じるとき、その人は、その場所を「自分の家」と思うのかもしれません。
そして、それまで、ただの居場所だったところが、帰るべき家、と感じられるようになることが、つまり、自立なののかもしれません。


当時のアイルランドの情勢、政治家やその政治家のスキャンダル(本文中に出てきた事件など)、
訳者あとがきの詳しい説明がありがたかったです。これを読んで初めて納得したことがたくさんありました。
アイルランドは遠い国、緑と民話の国、という程度の憧れしかなかったわたしなので。
この先に、続編、続々編があるとのこと。続きを早く読みたいです。
あれこれの「どうして」や「それからどうなったの」を知りたいです。
サリーのこれから先の歩みが、楽しみで待ちきれない。