シロクマ号となぞの鳥

シロクマ号となぞの鳥 (アーサー・ランサム全集 (12))シロクマ号となぞの鳥 (アーサー・ランサム全集 (12))
アーサー・ランサム
神宮輝夫
岩波書店
★★★★★


再読。
8人の子どもたち(ウォーカー4兄弟、ブラケット姉妹、カラム姉弟)は、
夏休みに、フリント船長のもと、シロクマ号に乗り組み、スコットランド近海を航海します。
旅の終わりに立ち寄った島で、ディックは、イギリスでは決して巣を作ることのない大オオハムという鳥の巣をみつけます。
オオハムを撃ち卵を横取りしようとする悪漢から、鳥と卵を守るために出航を遅らせることになったシロクマ号乗組員たちの冒険です。
とうとう最終巻です。
ゆっくりと、どんな細部ももらさず畳み掛けるように語られる物語が、
最後に進むにつれて速度を速め、すとんと終わってしまいました。
もうちょっと余韻がほしかった。
ゆっくりと子どもたちとのお別れをかみ締めたかったから、この潔いおわりかたが素っ気なく感じました。
だって、この続きはもうないのです・・・


全集最後のお話が卵を守る話なのがよかった。卵は、彼らの輝かしい子ども時代の象徴のような気がするのです。
子どもたちは本当に成長しました。とくにディックの進む道がうっすらと見えてきているように感じました。
もう、子どもではないんだな、ごっこ遊びとはさよならなんだな。
ごっこ遊びの夏休みをいくつも繰り返してきた子ども時代の殻を破って大人になっていく子どもたち。
卵が、他ならぬ子どもたちの手で、そっと鳥の巣の中に置かれます。手厚く守られながら。
彼らは大人になるけれど、子ども時代の輝かしさはこうして卵のままにそっとここに残されます。
持ち去られることも割られることもなく。
それは、わたしたち読者に手渡されたようにも思いました。あの子達の手から。
ちょっと感傷です。


全集最後なので、
巻末に神宮輝夫さんのあとがき、ランサムの追悼式でのルーバート・ハート=デイヴィス卿の別れの言葉が載っていたのもうれしかったです。
神宮さんはあとがきの中で、
「ランサムの本はあまりに中産階級的であるとか、大英帝国臭が強い」との批評・批判があることに、
たしかにそのとおり、と認めながら、それでもあまりあるほどの魅力があることを語っています。
そのいちいちにそうそうと頷き、いちいちに嬉しくなりました。その一部。

>ランサムの十二冊は、主人公たちの心の動きと行動と会話が、彼らをとりまくあらゆるものとのつながりをもって、自然に生き生きとえがかれています。子どもたちの目を通して観察されるあらゆるものに、みずみずしさとよろこびが感じられます。自然環境や物に対するつよい興味を刺激するように、あらゆることがこまかく正確にえがかれています。冒険物語のおもしろさすべてをそなえています。休みだけがもつ、のびやかな楽しさをもっています。こうした特徴があつまりとけあって、読者の心をつねによろこびで満たし、生きることの意味を知らず知らず教えてくれるのです。
喜び。そう喜びでした。
ランサム全集をつねに傍らにおいて過ごしたこの5ヶ月間、とっても楽しかったのです。
心の奥からふつふつと喜びが湧いてくるのを感じていました。


12巻、5ヶ月かけて読みました。
大好きなのは、一巻「ツバメ号とアマゾン号」。
夢中で遊びきる夏の喜びに満ちたこの本が忘れられません。
次いで、七巻「海に出るつもりじゃなかった」。
思いがけない出来事により、無理やりに自立せずにいられなくなった子どもたちの葛藤に引き込まれました。


わたしは、全集中、大きな海を舞台にした物語より、湖やその周辺の物語のほうが好きです。
湖は海よりずっと狭いけれど、それに合わせてツバメ号もアマゾン号も充分に小さくて、まるで操船する子どもの体のようでした。
「風の靴」というのは朽木祥さんの小説のタイトルだけれど、彼らの船は、船というより、まさに子どもたちの靴のようで、風を切って、元気一杯湖の上を自分の足で駆け回っているような実感がありました。
子どもの体温まで伝わってくるような物語が大好きでした。
それに比べて、海の物語はあまりに舞台が大きすぎ、その分どんなに大きな船(ヤマネコ号も月照号もシロクマ号も)であっても、小さく感じ、
そこに大勢の人間がまとめて乗っているのは閉塞感を感じました。
そして、船はもはや彼らの体ではありませんでした。むしろ家。
より大きな冒険の物語ではあるのですけどね。それはそれで印象的で魅力があるのですけど。


物語12巻読み終えて、「いつかは」と思っていた全巻再読の思いを遂げることができて嬉しいのですが、やはりちょっと寂しい感じ。
また少しずつ再読したいと思います。(全部じゃなくても、ちょこちょことつまみ食いをするように)
だってもう「ツバメ号とアマゾン号」が懐かしくなっています。