ヴェネツィアの宿

ヴェネツィアの宿 (文春文庫)ヴェネツィアの宿
須賀敦子
文春文庫
★★★★


あれ、須賀さんのエッセイだろうか、これ。
12編のうち、2編めの「夏のおわり」を読んで、そう思った。
こんなふうに率直に、具体的に、自分の身のまわりのことを書く人だったっけ?(・・・とエラそうに言えるほどたくさん読んでいるわけじゃないんですけど)

おとうさん、おかあさんのこと。
12編中、どこにでも現れた。まっすぐ家族のことが書かれているものも、それから間接的にちらちらと顔を覗かせるものもあった。
おとうさんの奔放ぶり、おかあさんの苦しみ・・・
どちらも、もし、わたしならあまり書きたくない。
今までの須賀さんのエッセイの中にも両親のことは書かれていた。でも、ここまではっきりと微細に書かれてはいなかったような気がするのだけれど。
かなり嫌な面まで書かれた文章だった。
でも、須賀さんの気持ちは・・・
おかあさんに肩入れしつつ、おとうさんに対して「好き」という以上の連帯感・一体感を感じているのだと思う。しょうがないなあ、と顔をこわばらせつつ、すでに許している。
そんな文章だった。
もしかしたら、お父さんの中に見え隠れする豪胆さを須賀さんがしっかり受け継いでいるからかも。それは、お父さんにとってもおなじ思いだったにちがいない。他者にはわからない、自分たちだけがはっきり知っているつながり。きずな。
「レーニ街の家」のなかで旧友カロラのことについて書かれた文章を読みつつ、須賀さんとお父さんの関係に重なります。父親にとっての秘蔵っ子、母親にとっての秘蔵っ子の話から。

それから少女のころの寄宿舎、留学中のどっちつかずの身分、京都の奇妙な縁の婦人・・・どれも、居心地悪い思い出が語られる。それが、嫌味ではなく、しっかり思い出になっている。懐かしいとさえ感じさせる思い出に。
須賀さんの文章のマジックみたい。この文章は、わたし自身の居心地の悪い思い出さえ、「そんなこともあったねえ」と懐かしさに変えてくれる。

そして、たくさんのあれやこれやに混ざって、夫ペッピーノさんのことがそろりと語られている。他の文章の中に混ぜて、混ざりきって忘れてくれてもいいの、といわんばかりの控えめさで。
その死のことは、そして、そこにまつわる感情については、やはり、これまで同様あまり語られない。
だけど、結婚当初から、須賀さんは夫との死別を恐怖している。「死」というものを絶えず意識しすぎていて、自分たちの生活から「死」という言葉さえ消そうと神経質になっている。
いつか死にわかれるのではないか、との予感のなかでの大切な一日一日。
須賀さんはペッピーノさんを失った悲しみを、生前の生活の中で、こういう形で書くことによって、間接的に表現したのではないでしょうか。こういう形でしか書けないくらいの喪失感、年月を経ても埋めることのできない悲しみを思います。

この本はおとうさんの死で終わります。なんとおだやかな終わり方。
静かな言葉で、おとうさんを送り、須賀さん自身のなかでひとつの心の整理がなされたように感じました。
親のことを書くことはすなわち自分のことを書くことだったと思います。
後ろを振り返り、その影のいちいちに頷いてみせて、それから前を向いて一人でさっそうと歩いていこうとする姿を思い浮かべています。