『第三の嘘』 アガタ・クリストフ 

悪童日記」に続く三部作の第三部。
悪童日記で描かれた様々な場面が、巻を追うごとに微妙にずれた形でリフレインのように繰り返される。
同じ舞台、同じ状況、同じ登場人物のはずなのに、各巻に微妙なブレがあるのだ。そして、この物語(記録?)を描いた人間は一体だれなのか?とずっとくり返し思い続ける。
悪童日記」であれほどまでに衝撃を受けて、その存在の確かさを感じさせてくれた双子だったが,二冊目「ふたりの証拠」以降物語のテーマそのものがなんとなく変わってきたようだ。ミステリアスな展開になって行く。 双子はいたのか、いなかったのか。そして、それぞれの巻のほんとうの語り手はだれなのか。ここにいるこの人物は本当に「彼」なのか。…これで本当に終わってしまうのだろうか。
そもそもこの物語は、本当はいったい何のために書かれたのか。

リュカとクラウス。
この二人は、やはり一巻を読んだときに感じたとおり、一つの脳を持ちながら二つの体を持ったような、深い絆の双子だったに違いないのだ。
そして、二巻をよんだときに感じたとおり、別れ別れの片方のからだはいつももう片方を思慕し続けていたのだ。
思慕し、いつか会うことを強く望みながら、同時に相手の(そして自分自身の)滅びを願っていたのだ。
そして、今、双子が実在しようと実在しなかろうと、そんなことはどうでもいいことなのではないだろうか、と思っている。
実在しようが実在しなかろうが双子はそこに「いた」のだ。痛みというにはあまりにも深い傷を抱えながら。

わたしは、この本の作者アガタ・クリストフという人が亡命作家だということを物語に重ねてしまった。
リュカとクラウスという二人は、故郷を捨てざるを得なかった作者の二つに引き裂かれた魂に与えられた「形」だったのではないだろうか。
リュカとクラウスの絆、互いを求め合う思いは、作者の、故国とともに失った自我の半分への強い強い思いなのではないだろうか。

クラウスが、あるいはリュカが半身を思ってこの物語をどうしても書かずにいられなかったのは、作者の思いに通じるように思う。
小説家として、というよりも、自分自身のために、どうしても書かずにいられない、ここにいる自分を確認するために…そんな思いで書かれた本のような気がしてならない。

このなんともいえない暗いラストシーンのなかに、作者の決してふさがることのない喪失感や、傷を感じる。でも、それでいながら、何か不思議な平和(書くべきことを書いたという満足?)も感じる。