『グリーンノウの子どもたち』  ルーシー・M・ボストン 

この本を手に取ると長女が小学生だった頃のことを思い出します。従姉妹たちといっしょに庭(農家の仕事場としての庭は広いのです。当時は防風林も竹林も敷地のなかにあって、遊び場には不自由しなかった)をかけまわりながら、
「グリーンノウは悪魔の木、グリーンノウは悪魔の木」と歌っていました。
娘はこのシリーズを当時大好きで、特に好きなのは、一番最初のこの本、ゆっくり時間をかけてシリーズを読破していきましたが、「グリーンノウのお客さま」を読んで、嫌いになってしまいました。(動物の悲しい話を嫌がったので)

しばらくぶりの再読でした。
この本からのイメージとして、イギリスの古いマナハウスの歴史ある雰囲気(良い思い出も悪い思い出もごったまぜにして、現代と過去がしっかりからみあって、息づいている感じ)が好きでした。
大雨のあとのグリーンノウの屋敷のすがたがいつも目に浮かびます。
大海のなかをきりりと進んでいく帆船のような姿で。
いうなれば幽霊話ということになるのでしょうが、多少の不気味さはあるものの、暗くて冷たい感じはありません。
むしろ、それは慕わしいもの、今生きている人が自分の根っことして、自然に迎え入れ、自然に生活の一部としていくもの、という感覚が珍しくもあり、とても好感をもてたのです。

という思いをもって読み始めたのですが、本を開いたら、細かいところをずいぶん忘れていたことに気がつきました。
トーリーという7歳の男の子が主人公なのですが、この子の孤独さを強く感じました。
トーリーは、冬を大おばあさんの住むグリーンノウですごしますが、ここにビルマにいる父から手紙が来ます。この手紙のことをトーリーは「前よりも親しみのないものに感じられた」と言っています。また、追伸として義母(父の再婚相手)からの「おかあさまからトーリーへ、よろしく」といういかにも心の篭っていない文章を読んで、焼き捨ててしまいます。
思春期、青年期であれば、親を捨てて颯爽としていられるのでしょうが、トーリーはまだ7さい。自分につながるものがないことがどんなに不安でさびしいことであったか。 トーリーが300年前の子供たちに逢いたいと強く願ったのは、彼らが自分にしっかりむすびついているものだったから、と思うのです。
まるでかくれんぼをするように、そして、ふざけてからかうように陽気な子供たちがトーリーにゆっくりと近付いてきて、ついには互いが互いの一部分だと認め合っていく過程のたのしさ。

わたしは、この300年前の子供たちが、ペストで死んでしまった、決して大人になれなかった、ということが心に引っかかるのです。
この陽気な幽霊たちはそれを悲しんでいないのですが、いつもは天国にいて、ときどき、ここにくることをおかあさまは許してくれているのですが。
親であるわたしにとって、子供が子供のままで命を終わってしまうことは、やはりイヤなんです。
天国に召された、神さまのそばにいった、そういうことに、納得できないのです。
これはナルニアの「さいごの戦い」にも通じるけれど…
子供は「この世」で大人になってほしい。子供は「この世」で育つものだ。どんな形であれ、子供が途中で「この世」と別れていくことは納得したくない(駄々っ子です)
でも、これを読む子どもは、こういうことは思わないみたいなんです。ただ、この不思議な美しさと秘密めいた楽しさにうっとりとして、楽しんでいました。

トーリーが、父と新しい母と、何らかの方法で心通わせるかして折り合いをつけられたら、オーソドックスなハッピーエンドになるのでしょうが、この本ではそうはなりません。
トーリーと両親との接点はありません。憎みあうとかそういうのではなくて、ただ折り合えない。家族になれない。
折りあえないのならしょうがないだろう、実際問題、そういうことってゴマンとあるだろう、と思います
それなら、別の場所で、折り合えるものをさがしてもいいんだよ、そういっているような気がしました。(なんだかほっとします。)
オールドノウ夫人はグリーンノウ屋敷そのもの。ここで、トーリーは、自分がひとりではないという歓びと責任、そして、自分の中に脈々と流れる先祖たちの血に出会ったのだと思います。