『青い図書カード 』 ジェリー・スピネッリ 

青い図書(貸し出し)カードをめぐる四つのオムニバスです。「マングース」「ブレンダ」「ソンスレイ」「エイプリル」という名(またはあだ名)の少年少女を主人公に持つ。
町一番の悪ガキ、テレビ中毒の少女、母親を失った寂しい少年、孤独な田舎娘とパンク少女。彼らの前にいつの間にかさりげなく現れる青い図書カードが、彼らを図書館に導く。そして、彼らの何かが変わっていく。

メッセージ性の強い物語ですが、それが決していやらしくはないです。(だって図書館だもん)
図書館ってすごく不思議な場所、こんな風に出会う図書館って素敵だなあ。不思議なんだけど、舞台が図書館だと、ああ、確かにこういうこともあるに違いない、と思う。
それは、図書館が、やはり特別な場所だと思うから。子供たちが心を解放して、自由に遊ばせることが出来る場所なんだなあ、と、ひとり頷いてしまう。

それから、子供たちの状況や気持ちが丹念に描かれています。現代のアメリカのあちこちの町角の子供たちのきっとこれはごく普通の姿なんだろうな。
かなり厳しい状況の中、彼らは生き生きとして、いや、そうじゃない、それこそ必死になって、「自分はここにいる、ここにいる」と叫び声をあげているような気がした。

すきなのは「マングース
親友とともに万引きしたり、町中にペンキで落書きしたりしていた、文字通りの悪がき。
夜毎の彼らの悪さは、悪びれず、だけど、痛々しい。16歳になったら学校をやめてジャガーやファイアバードのような車を手に入れる、それが夢。それ以上もその先も夢見ることさえできない。
ペンキで町のそこいらじゅうに書かれた自分の名前(ニックネーム)は、自分の存在を無理やり誇示しようとする、自分がここにいることの証のようだ。
それが青い図書カードに導かれて生まれて初めて入った図書館で手にした一冊の本に魅了されていく・・・
この、目の前がパアンと開けていく感じがすごい。すごくわかるような気がする。
相棒がちょっとかわいそうなんだけど、彼はきっと逞しくやっていける。

それから「ブレンダ」
病的なまでにテレビ中毒の少女が、学校の企画「テレビを消そう大週間」のおかげで、ひどい目にあうところが、なんともコミカルでおもしろい。青い図書カードが、大週間のあいだに飛び込んできて・・・。
自分の好きな色さえも思い出せないくらいにテレビにすっかり依存していた少女が、自分の現状に気がついていくところ、おかしいんだけど、かなりシビアです。
大週間が終わった後、彼女はどうなったか。

「ソンスレイ」もよかった。
麻薬中毒で母親を失った少年が、図書館で母とともにくり返し読んでいた一冊の本に再会する場面はほっかりしてしまった。

それにしても、子どもたちのこの過酷な生活。悲しみ。寂しさ。怖さ。やるせなさ。心に残ります。
 

あまがさ

あまがさ (世界傑作絵本シリーズ)

あまがさ (世界傑作絵本シリーズ)


ニューヨークに住むモモという女の子のお話。
3歳モモは、お誕生日に買ってもらった雨傘と長靴がうれしくて、夜中に起きだしてもう一度ながめたくらい。
かさをさしたいモモの気持ちとは裏腹にお天気の良い日が続く。
傘をさしたくてたまらないモモとおかあさんのやりとりがほほえましい。

おとうさんが愛娘の思い出に、大切に作った本だって気がする。
この子供のしぐさのかわいらしさ、その言葉のほほえましさ。
真剣なモモを差し置いて、ああ、わたしもやっぱり親の目。

そして待ちに待った雨が降る。
「あら?」
モモが開いたかさは水色。
どうしてかなあ、わたし、ずっと赤い傘を想像していたんです。
三歳の女の子が、生まれて初めて持った自分の傘。自分だけの大切な傘。
その傘に水色の無地を選んであげる親のセンスに、自分と違う強い個性を感じて、見入ってしまいました。

雨が待ち遠しい、ようこそ雨、雨がうれしい、雨やまないでねずっと。そんな気持ち。
「ぽんぽろぽんぽろ・・・」と続く擬音のなんという楽しさ。
  >――わたし、
       おとなのひとみたいに、
       まっすぐ あるかなきゃ!
初めての傘をさして、少し緊張して、ほら、このほこらしそうな後姿をみてごらん。これは親の目に映った、ずっと消えない娘の姿。
振り返って、お父さんの顔を見てみたい。きっとまぶしそうな顔をしている、娘以上に誇らかな顔をしている、きっときっと。

そして、最後の2ページ。
頬杖ついた大人げな女性の顔。そえた言葉は、
  >モモは、
   もう いまでは
   すっかり おおきくなって、
   この おはなしを
   少しも おぼえていません。
   覚ええいても いなくても、
   これは、
   モモが 生まれてはじめて
   あまがさを さした ひだったのです。
   そしてまた、
   モモが うまれて はじめて、
   おとうさんや おかあさんと
   てをつながないで、
   ひとりで あるいたひだったのです。

このページの女性がながめているのはきっと幼い日のアルバム。おとうさんとおかあさんの、思い出話を聞きながら、きっとくすぐったくて、手元のアルバムに目を落とす。

わたしはこのページでいつもじんわりしてしまう。いつまでも幼いままでいるはずのないわが子を思って。
でも、
この本を読んでもらっていた小さなモモと等身大だったわが子はいつも、最後のページで、ふっと取り残されたような顔をした。この女性が小さなモモと繋がらなくて。
小さな娘はいつまでも小さなまま、大人になるのは、何億年か先のような思いだったに違いない。

そんなこんなもひっくるめて、ときには、子供の幼い日の大切な思い出を紐解いたりしてみたい。