『樹影譚』 丸谷才一

 

三つの短編が収められているが、表題作の『樹影譚』が、心に残っている。


『樹影譚』
三章仕立ての最初の一章を読み始めた時、これはエッセイかな、と思った。
「わたし」は、無地の壁に映る樹木の影に惹かれる。季節や時刻、天候によって、影の映り具合が変わるのも風情があってよいと思っている。
読んでいると、大きな外壁の上で揺れる枝葉の影が見えるようで、気持ちがいい。
樹の影の話は、ある短編小説の話、夢や記憶の話に波及して、ちょっとしたミステリーにもなってくる。最後に、読者へのちょっとした問いかけで終わるのも、開かれた感じがして、この章だけを切り取っても、とても小粋なエッセイと思うのだ。


「わたし」から、主人公として古屋逸平という小説家が紹介されて、二章から、古屋の物語が始まる。
少しずつ形を変えながら繰り返されるのは、樹の影、短編小説、そして夢、記憶の話。
古屋と一章の「わたし」が混ざりあってくるようだ。「わたし」って誰なのだろう。
これは、入れ子の物語だろうか。だとしたら、どちらが外の箱で、どちらが中の箱なのだろう。
カノンのようだとも思う。
少しずつ形を変えながら繰り返す主題曲。小さなカノンと大きなカノン?
あるかないかの既視感を重ねつつ読んでいると……。


艶かしくて、不気味だと感じるところもある。罠にかかったようで「しまった」と思うところもある。
樹木の影の話ではなくて、人の話だった。人と、人の影の話だった。
いつのまにかわたし自身も影になって、大きな流れに引き込まれている気持ち。
物語が開かれているのは、罠を仕掛けて、のこのこと覗き込む人を待っているからかもしれない。