『十一月のマーブル』

 

小学6年生の波楽(はら)は、父の本棚で一枚のはがきを見つける。はがきに書かれていた名前は、今のかあさんではない、自分を産んだ女性であることに気が付き、差出人の住所を訪ねようとする。それは、今までにも、うすうす気が付いていた、その他の事情を確認することでもあった。
また、波楽と親友のレン。二人は間違いなく親友であるけれど、フランクに話せないことがあった。


家族のこと、友だちのこと、自分自身の気持ち。過去のこと、未来のこと。
一人称語りの波楽が、日常のことを(読者にあらかじめ何の情報も与えずに)あるがままに話しているとき、こちらは、与えられない情報を、こちらの常識で推量して埋めていく。
そうして、波楽の小さな冒険を、ともにする。
だんだんに、思ってもみなかった事実が浮かび上がってきて、小学六年生が置かれた困難な現実に驚く。
そして、ここまで読んできて「おや?」と思った(でも、「ま、いいか」と読み飛ばしてきた)あの件、この件は、つまりそういうことだったのか、と合点がいく。
同時に、こちらが常識だと思っていた当て推量が、実に偏見に満ちたものだったことを、思い知らされる。
彼らの困難な現実は、彼らにはどうしようもない。それにもかかわらず、彼らをこんなにも難しい立ち場におき、さらにそれに拍車をかけているのは、あなた(をはじめとした大多数)のこうした思い込みによるのではないか、と問いかけられているように感じて居たたまれなかった。


始まりは、「左利き」だった。駅の自動改札機も、自動販売機も、左利きには使い勝手が悪い。ノートに文字を書くときだってそうだ。クラスメイトは、右利きが大勢で、左利きはわずかしかいないから、この疎外感を分かち合える仲間を見つけることさえ、一苦労なのだ。
「ぼくたちだけ、ちがうね」
物語はそんなところから、始まる。「そんなところ」はさまざまな「ちがう」の入口だ。
ちがうことが、困難よりも、楽しいと思えるようになるには、どうしたらいいのだろう。
真剣に考える子どもたちは、素直でやさしい。だから切ない。そして、やっぱり、やさしい。


子どもたちには未来がある。一人の子どもに「未来」という名前を贈った作者の願い、祈りが、物語の先へと続いている。
颯爽と歩きだす子どもたちが眩しい。
「人生が一枚のキャンパスだとしたら、そこには無限の可能性がある」