『世界はまるい』 ガートルード・スタイン(文) クレメント・ハード(絵) マーガレット・ワイズ・ブラウン(編集)

世界はまるい

世界はまるい


この本は、どういう本かというとね。
たとえば・・・ほら、ここにイチゴがあるとするでしょ。そのことを文にしたら「これはイチゴです」とか「ここにイチゴがあります」とかになるかな。
でも、そういう風に書いているときに、頭の中には、もっといっぱいのことが浮かんでいる。「赤い」「きれい」「イチゴの髪飾りとか」「おいしそう」「お砂糖、ミルク」「ジャム」「ケーキ」「いやいや、このまま一口で食べちゃおうか」とか、いろいろ。
そういう思いつく限りは、全部しまっておいて、整理して「これはイチゴです」と、わたしは紙に書く。
でも、そうしないで、思いつくもの全部、思いつくままに書いてしまったらどんな感じだろう。


あるいは、思いだす。こんな話し方をする小さな女の子と昔、暮らしていたっけな、と。
ひとり遊びしながら、ずっとぶつぶつとしゃべっている子だった。その子の中には、二人、三人の人(動物?)がいて、みんなが、たった一人の女の子の中で会話をしているのだ。
あの子のなかから溢れてくる言葉、全部書きとめておいたなら、あとから読み返すこともできたのに。今、読み返すことができたら、どんな感じだろう。


どんな感じかっていうと・・・この本のこういう感じだ、きっと。


言葉や句読点がすっきり整理された文章に慣れていたから、この本を読み始めたとき面食らった。
何の話をしているのかわからなくなって、このままでは、道にまよってしまうかもしれない。と思った。
でも、それは悪い事なの?
道に迷ってもいいじゃない? ときには、道に迷ってもいいの。道に迷うって楽しいじゃないの。
巻頭「読者のみなさんへ」と書かれた文章の一番おわりに「この本は、たのしく読んでください」と書かれている。
巻末、訳者の「世界の“あるところ”でこの本を読んだあなたへ」の一番おわりには、「“声”に耳をすませてみてください」と書かれている。
だから、そういうふうに読みました。ゆっくり、楽しんで、ときどきは音読したり、歌ったりして読みました。


歌が好きなのに、歌をうたうと悲しくなって泣いてしまう女の子がいて、
歌が好きで、歌を歌うと元気になって笑ってしまう男の子がいて、
それからブルーのライオンが出てきて、あ、ちがう、ライオンはブルーじゃなくて、ブルーの椅子が出てきた。
椅子と女の子のほんとうの冒険も出てくる。
不思議なことも起こる。


混乱するほどたくさんの言葉が書かれているのに、書かれないことばもたくさんある。
たとえば、女の子はなぜ、そんなにまでして冒険したのだろう。重たい椅子といっしょに。
そういうことが、あとになってから、気になったり、ああ、と思ったり。かわいい本だけど、それだけじゃなかったって、あわてたり。


ともあれ、言葉に乗ってトコトコ歩いていく。
だってほら、この本のはじまりはこうです。
「むかしあるとき、世界はまるくて、てくてくとことこと歩いていくとぐるっとひとまわりすることができました」
だから、トコトコと読んでいけば、ちゃんとひとまわりできるんだ。