『ジェーンとキツネとわたし』 イザベル・アルスノー(絵)/ファニー・ブリジット(文)

ジェーンとキツネとわたし

ジェーンとキツネとわたし


エレーヌは、決して太っているわけではないのに、自分のことを太っている、と思わされる。
エレーヌは、みっともなくないのに、自分のことをソーセージみたいにみっともない、と思ってしまう。
臭くなんかないのに、自分は臭いのだ、と思ってしまう。
クラスじゅう、周りじゅうから寄ってたかって笑われて、そうしたら、悪口が事実のように感じてしまう。
エレーヌはひとりぼっち。誰も彼女には口をきかない。
気にしないようにしている陰口や落書きは、やっぱり気になるし、ストレートに胸を刺す。
「わたしには、ツタみたいに伸びていく想像力があるのに、あの子が考え出す新しい悪口には、いつも不意をつかれる」


エレーヌが毎日少しずつ読んでいる本『ジェーン・エア』のストーリーが、エレーヌの物語の間に、サイドストーリーのように挟み込まれる。
エレーヌの日常を描いたページは、モノクロで描かれている。背景には荒々しいタッチの闇がある。枯れた木やつんと尖った針葉樹のシルエットが目立つ。
でも、『ジェーン・エア』の物語のパートは、カラーなのだ。はっとするほど鮮やかだ。


彼女の日常と、彼女が読む物語の中と、いったいどっちがリアルなのだろう、と思う。
色鮮やかなはずの現実の世界が色を失ってしまうなら、本当の自分の姿よりも悪意ある悪口の方がリアルだと感じられるなら、しっかり見えるはずの事実が見えなくなってしまっているのなら、当人にとって、そこは現実の世界ではないのかもしれない。
集団のいじめが、人の心にどのような作用をするのか、モノクロの絵が物語る。


ジェーン・エア』の鮮やかな色は、やがて現実の世界のモノクロの中に少しずつ混ざっていく。
始まりはキツネだった。
ジェーン・エア』の物語の中にさりげなく描き込まれていた小さなキツネが、ある日、現実の森の中から、エレーヌの前にそっと顔をだす。モノクロの背景の中で、キツネは鮮やかなカラーで描かれている。
(現実よりもリアルな)物語の世界から、ぴょんと飛び出してエレーヌの前に現れたように思える。
すぐに消えてしまうのだけれど。
エレーヌの「ツタみたいに伸びていく想像力」が、もしかしたら、キツネを呼び寄せたのかもしれない。
だんだん色のないエレーヌのまわりの世界に色がさし始める。
物語の力がほとばしっている。音がきこえるような気がする。
物語は、想像の力を借りて(エレーヌのツタみたいに伸びていく想像力!)モノクロの世界を鮮やかに染めていく。
エレーヌには、とっかかりはキツネだったけれど、このキツネは、いろいろな形になって、わたしたちが読む物語の中にきっと隠れている。ある日、ひょいと、現実の世界に飛び出す。モノクロの世界に、鮮やかな色をまとって。


本・物語の持つ大きな力を信頼します。
それは、いじめに対して直接作用するわけではない。いじめが収まるわけでもないし、辛く苦しい思いをしている子どもに何か即効性のようなものがあるわけではないのだ。
対症療法的なものを期待したらがっかりするかもしれない。
けれども、誰も知らないうちに、誰も知らない方向に、物語の力は、それこそ見えないツタのように、延びていく。