『わたしの本当の子どもたち』 ジョー・ウォルトン


パトリシアは89歳。
あるはずのドアが今日はない。ないと思っていたエレベーターが今日はある。
看護士は、彼女の介護記録に「今日も混乱」と所見を書く。記憶があやふやになってきていることは、パトリシア自身もよくわかっている。
けれども、自分が産んだ子どものことを、ある時には三人、またある時には四人と思い、その時々で名前までも違って記憶するなんてことがありうるのだろうか。


パトリシアは思いだす。
自分は、二種類の過去の記憶を持っている。過去、人生の大きな決断をしたとき、彼女の人生は、yesの場合、noの場合の、二つに分裂してしまったのだ。
パット(パティ)と呼ばれた彼女の人生、トリッシュ(トリシア)と呼ばれた彼女の人生が平行して交互に綴られる。
そして、今、二つの人生が、再び、一つに合わさる。今のパトリシアは二つの過去の記憶を持つようになったのだ。


一点の選択の違いから、生き方・価値観がまるで異なってしまったバットとトリッシュだが、全く別の人格を持つ全くの別人のように見える。
環境や機会など外からの刺激に人はこんなにも影響されるものなのか、と驚く。
と、同時に、大きく見れば、本質は変わっていないのだ、ということを、再認識したりもした。老いたパトリシアにとって、二つの人生は二つとも捨てがたい真実だったから。


89年という彼女(たち)の人生の流れの中で、女性であること、LGBTQであることに対する社会の考え方がずいぶん変わってきたことを目の当たりにしながら、ここへ到達するまでに耐えなければならなかった理不尽な苦しみや、悔しさが、蘇る。そして、まだまだ途上なのだ、ということも意識する。
どんなに法で守られても、人の意識はなかなかに変わるものではないのだということや、不完全な法が、守られるべき者たちの権利を奪っていることなども、見せられた。
老いていく親の介護、変わっていく家族のこと、他人事ではない思いで読む。迫ってくる自分の老いも、現実味を帯びてきた。


彼女(たち)の世界の現代史は、私が生きるこの現実の世界のそれと、よく似ているようで、かなり異なる。
世界はいつも無数のyesとnoがあふれていて、その時々の選択によって、その後の世界はこんなにも変わってしまう。
想像も出来ないようなことが次々起こる世界の中で、人はただ夢中で自分の人生を生きていく。
設定はSFであるが、二人の聡明な女性の人生の記録と思う。


パットの人生の途上でも、トリッシュの人生の途上でも、同じ人物と、別の形で出会うことがある。
片方の人生では極めて近しい関係にある人が、別の人生では単に通りすがりであったりする。それがなんだか寂しい。
二つの人生の一方は、パトリシアにとっての「もしも〜だったら」に過ぎないとしたら、パットとトリシアの子ともたち・孫たちは、どちらか一方は存在しないことになってしまう。
彼らは、彼らの世界で彼らの物語の続きを生きていてほしい。


パットもトリシアも、それぞれの人生を精一杯に生きてきた。過ちもあったし、無為な日々だったと悔やむこともあった。
でも、人一倍誠実で、精力的な人生だった。
そうした彼女たち(あえて「たち」)の人生のおしまいには、同じ静けさが待っているのか、と感慨深い。