『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』 ジョン・グリーン×デイヴィッド・レヴィサン

ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン (STAMP BOOKS)

ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン (STAMP BOOKS)


シカゴの別々の高校に通う同姓同名のウィル・グレイソンが一章ごとに、交互に語り手になって物語は進む。
おもしろいのは、二人のウィル・グレイソンは、二人の作者によって書かれていること。
奇数章はジョン・グリーン、偶数章はデイヴィッド・レヴィサンによって。
やがて二人は出会う。二人を囲む仲間たちも出会う。彼らみんなが抱え込んだいろいろな悩みも一緒に出会う。
高校生の群像の物語になる。


自分はいったい何者なのだろう。正面から向かい合いたくない不快な生き物なのだろうか。
臆病になり、他人からも自分からも隠れるための盾、ポーズを作っている。
その姿が、まるで寸法の合わない着ぐるみを着ているみたいで、息苦しく見えてしかたがない。
逃げたり、ぶつかったり、うろうろしたり、の高校生たち。


一番大きく心うごかされたのは、タイニーの「物語」だ。
タイニーという青年が、ミュージカルを書いている。
それは自分を主人公にしたミュージカルで、自分自身の物語である。脚本も監督も主演も本人のミュージカルである。
痛いことしないでよ、と思うこちらの気持ちをあっさりと無視して、いつのまにか学校中を巻き込んで、上演にこぎつけようとしている。
人々を動かしたのは、自分を物語る、ということの力ではなかったか。
タイニーの物語は、柔らかい。変容を拒まない。来るものをみな包み込んで広がっていく感じだ。
物語が生きている。
生きて、なにかいいことをしようとしている。物語の書き手さえ、最初は思いもしなかったことだった。
物語には、大きな力がある。そして、人には物語が必要なのだと、しみじみ思った。


もう一つ、大きく心に残るのは、LGBTQについて。
ゲイの青年が、この物語に何人かでてくる。彼らは深く悩んでいる。
自分は同性にしか恋心を抱かないということを誰かに伝えることを、カミングアウト、という言葉にする。
つまり、これは、そういう言葉で表さなければならないほどに、特別なことで勇気のいること(そして、それを聞いた側も同じくらい勇気をもって受け止めなければならないこと)なのだ。
世間一般が、LGBTQにどのようなイメージをもっているか、ということを表してもいる。
殆ど言われのない彼らの苦しみに、二人の作者は、そっと寄り添う。


彼らの、誰かを大切に思う気持ちはとてもひたむきで、そうした姿を見せてくれただけで、ありがとうだなあ、と思う。
できれば、カミングアウト、なんて言葉、使いたくない、使わせたくないじゃないか、と強く思った。
誰かを大切に思うなら、相手が異性だろうが同性だろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。
そう思ったら、むしろ、同性・異性ということにこだわるほうが、おかしなことのように感じた。
自分を見つめ、相手をみつめ、そうして、また自分をみつめ・・・世界が広がっていく。
カミングアウトなどと言わず、自然体でそれぞれの恋愛観を語れる時代が早くくればいい。