『この世界の片隅に(上中下)』 こうの史代

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)


映画を先に観てきたのです。それから原作の漫画を読みました。
映画と漫画とが、表現の仕方の違いなどから、補完し合っている感じで、両方を見ることができて良かったと思っています。
たとえば、主人公すずさんの描く絵が、映画の中で伸びやかに広がり、輝き、跳ね回っている感じが忘れられない。恐ろしい場面でさえ、ここに絵具があったら、と思わずにいられないすずさん(そして、そう思ってしまうくらいに、死の恐怖は、現実離れしたものであること)印象に残って居る。
いっぽう、上中下三冊の原作を読みながら、映画の中で、わからなかったもの、あるいはぼんやりと匂わせていたもの(それはそれでよかった)を、はっきりと見せられて、ああ、あれはそういうことだったのか!と目の前が開けたような気がした。
原作の余韻を引き摺りつつ、今、もう一度映画を観たくなっています。映画見て、原作読んで、また映画を観られたら、最高だけれど・・・


・・・かくして戦争は終わるのである。
昭和天皇による終戦玉音放送がラジオから流れる。人々がそれを聞いている。
私は、ジブリの映画『ハウルの動く城』で、王様の顧問のエライ魔法使いの先生(?)が「この馬鹿気た戦争も終わらせましょうかね」と言ったことをふと思い出した。
戦争のおわりはよく似ている、と思って。
まるで、テーブルの上のゲーム盤を片付けて、さてご飯の支度を始めましょ、と言っているような感じで。
戦争って、だれかによって、始めることもできるし終わらせることもできるものなのだった。そう改めて感じて、裏切られたような気がした。


普通に暮らすこと、みんなが笑って暮らすこと。
空襲に明け暮れる日々、知っている誰かが召集され、死んでいく日々、日々食べるものを調達するのが難しくなって居る日々、家も家族も奪われ、働きに働き、我慢に我慢を重ねてそれでも足りない日々・・・
そうした日々のなかでは、普通でいることも笑っていることも、戦いだった。
この戦いは、日本国の戦争相手が敵ではない。敵は、自身の生活を奪い去ろうとするものすべてだった。
終戦を告げるラジオの声は、そうした主人公すずさんたちの戦いを、にわかに意味ないものにした。
彼女たちが戦っていた敵は、はりぼてであったことに気が付いたのだ。はりぼてを相手にして、誰かの楽しいゲーム盤の上にいることも知らず、人は苦しみ、死んでいったのだなあ、ということをわたしはしみじみと感じている。


優しい映画、漫画。忘れられない人々。何度も見たい場面がいっぱいある。そうっとしまっておきたいような小さな美しいものをたくさん見た。
しかし、それらは、非日常のなかで、だれが、どのようにして、生み出したものだったのか、見つけ守ってきたものだったのか・・・考える。