『少年少女のための文学全集があったころ』 松村由利子


子どもの頃の読書を振り返れば、ただ懐かしい思い出というだけではなくて、あの頃好きだった物語と、大人になった今の自分とが深く結びついていることに気がつく。
読んだことさえも忘れていた(つもりの)物語が、思いがけないときに思いがけなく顔を出して、驚くこともある。
この本には、懐かしい物語のタイトルや登場人物の名が次々出てくる。それらを眺めているだけで、もう楽しくて笑いだす。


外国の物語の翻訳についてのこぼれ話(ときには、翻訳の『なぜ』をミステリのように追う)、
子どもの本を大人になって読み返して初めて気がつく背景や隠されたメッセージ(受け入れがたいもの、差別的なものも含めて)のことなど、
著者について、あちらの小路、こちらの隅っこ、と、散策させてもらった。見える景色をいろいろな角度から見せてもらった。


読み終えた今、懐かしい、嬉しい、だけではない、取り返しがつかないような寂しさも感じている。
この本に出てきた物語は、たいてい今からだって、いくらでも出会える、味わえる(実際、いますぐ図書館の児童室に走っていきたいくらいだ)
でも、子どもの時と同じ気持ちで本を読むことはもう絶対に絶対にできないのだな、ということを確認してしまった。


大人は、子どもの読書について、親切心から、いろいろお節介をやく。
ときには、大人の心遣いが、子どもの読書体験にとって仇になることがある。
たとえば、よく耳にする読書感想文の功罪について。
著者は、サン=テグジュベリ『星の王子様』の「かんじんなことは目に見えない」という言葉を引くのだ。
はっとした。読書感想文の話以前のところだ。見えないものを見えないまましまっておく、ということを、まず、心にとめよう。
また、一時期、多くの出版社から出ていたたくさんの子どものための名作全集が、「抄訳はよろしくない」「完訳でなければ意味がない」という意見のもとに、すたれていったことについて。
著者は、抄訳には本当に意味がないのか、と問いかける。そして、言う。
「いま振り返ると、全集ものは小学生の私にとって、膨大な書物の海に漕ぎだすためのおおまかな海図だったと思う」
私自身が、まさに、子どもの本棚に抄訳はいらない、と考える狭量な親だったことを思い出し、恥ずかしくなる。子どもたちに申し訳ないことをした。
子どものころの図書館の棚に並んでいた何十巻もの文学全集のことを懐かしく思い出しながら、単純に、あれがよくて、これはだめ、と切り捨てる考え方は、やはり、よいことではないように思った。
子どもの心の「見えないところ」にある弾力や柔軟さは、きっと大人の想像を超えている。


「子どものころは、どうしてあんなに本を読む時間があったのだろう」と著者。
ほんとうにね・・・
子どものころって、毎日結構忙しかったではないか(友達と遊んだり、テレビを見る時間も含めて)
それでも、好きな本を読む時間がない、と嘆いたことは一度もなかったような気がします。