『べつの言葉で』 ジュンパ・ラヒリ

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)


ジュンパ・ラヒリは、(英語で書く)作家として成功しながら、いま、英語を捨て、イタリア語を必死に学び、自分のものにしようとする。
その過程を読んでいると、熱心さよりも一種鬼気迫るものを感じ、圧倒される。
語学、などという甘いものではない。彼女はイタリア語を見出し、イタリア語が彼女を見出したのだ。
ロンドンで生まれ、アメリカで育つ。英語圏で成長し、英語を流暢に操るラヒリは、母語であるベンガル語を完全には知らない。母語を読めず書けず、話すことにも自信を持てない。
その言語と共に育ち、その言語で感じ、考え、話し、書きながら、それは母語ではない。母語はいつも自分と隔てられたところにある。その不安定感はいかばかりのものだろうか・・・
想像するしかないのだけれど、英語でもベンガル語でもなく、彼女を支え、彼女自身の核になる言語に出会うことで、彼女自身が生まれなおそうとしているのだろうか。


こんなふうに比較してはいけないかな、と思うのだけれど、アゴタ・クリストフの自伝『文盲』を思いだしてしまう。
アゴタの母語ハンガリー語であるが、ロシアによる侵略やハンガリー動乱などにより、各地を転々とする。母語であるハンガリー語は強制的に奪われてしまった。
アゴタが自伝を発表したのは亡命先のスイスであり、フランス語で書かれた。
フランス語で自伝を綴る彼女は自分自身を「文盲」と表現する。自身が選び取った言語ではなく、否応なしにその国の言語になじむしかない状況を文盲という言葉で表した。
母語から無理やり引き剥がされることは、身体を引き裂かれ、半身のままになってさまよい続ける運命を負わされたようではないか。(あの双子の物語は、二つに裂けたクリストフ自身と思う。)


母語ってなんだろう。
私の母語は日本語である。そのことを改めてじっくりと感じたことも考えたこともない私は、とても恵まれていたのだ。
おそらく、わたしは生まれ育った国を捨てることはできるのかもしれない。辛いけれど、できるとは思うのだ。
けれども、言語を捨てることはできるだろうか。明日から別の言語で感じ、考えることは、できるだろうか。
その言語だけにしかない「ことば」ってあるはずだ。どうあっても、別のことばに訳すことのできない、その言語だけが表現しうるもの。
そして、その言語を使うことによって、ことばにしなくても、感じることのできる、一種の無言の空間までも、きっと言語の一部なのだ、と思う。
・・・カルカッタをはなれ、英語圏に移住した両親のことを、イタリアでジュンパ・ラヒリは、このように書く。

>わたしが若いころ、アメリカで両親はいつも何かの喪に服しているように見えた。いまではそれが理解できる。言語のためだったにちがいない。
「喪に服す」それは、アゴタの・クリストフの「文盲」とともに、なんと強烈な言葉だろう。


母語にずっと隔たりを感じてきたジュンパ・ラヒリの四十年は、半身のままの四十年だったのだろうか。一体になるべき半身をずっと探し彷徨っていたのだろうか。

>自分が決定的な言語もなく、原点もなく、明確な輪郭もない作家だと、これほどまでに感じたことはない。
どうして想像できようか。その自分であって自分ではない状態・・・わたしはジュンパ・ラヒリアゴタ・クリストフの文章から教えられる。
ひとのからだは、もしかしたら、肉と言葉によってできているのかもしれない・・・


ジュンパ・ラヒリはきっと、ずっと探し求めていた半身に、出会ったのだ。
まるで、渇ききった体が水を求めるように、イタリア語をごくごくと飲んでいるようなラヒリ。全身をその水に浸しているようなラヒリ。
その姿は、生まれたての赤ちゃんのようだ。